ギャグのつもりなんだろうなとは思いましたが、じゃあそのギャグを吐く必然性を示してください。役者の行動には必ず必然があります。「なんとなく動く」にも、役者は潜在的にしろ顕在的にしろ「なんとなく動こう」と思わなければ動きませんよね。たぶん、本気でなーんも考えずに舞台上に立っている役者は、相当な天才か相当な大根でしょうね。
それで、話を戻しますと、「もーどーにでもして」にも必然があるはずです。作者さんとしてはギャグでも、役者には必然が必要です。多分この場合「ギャグ」という必然か「本心から」という必然か「なんとなく流れで」という必然のいずれか、あるいはそれらの複合だとは思います。
ではまず「ギャグ」の場合、あんな大変な状況でギャグを吐く演出に付いていけますか?「周りは気にしていない」というお考えのようですが、たしかに状況は極めてギャグであるとはいえ、他の人間は真剣です。真剣だからこそギャグだと言っても良い。そんな中で、ギャグを言うような人間が正気とは思えません。自分たちが一生懸命フォローしようとしているのにギャグを言ってお茶を濁す演出を「気にしない」周囲も正気とは思えません。
次の「本心から」は作者さんが否定してらっしゃるので省きます。
最後の「なんとなく流れで」だとしたら、これはもう、あんな状況でポロッと言ったのだとしたら、それは既に本心でしょう。本心でなければギャグでしょう。そして本心論は否定されているからギャグなんでしょう。ギャグだとしたら正気じゃないと思います。
だからどんな場合でも、「もーどーにでもして」というセリフによって、演出の説得力は著しく削がれているのです。少なくとも読んだ私はそう思いました。それは即ち観客もそう感じる可能性が高いということです。
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