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絹代 「ああ、お姉さん、秀幸さん。」
沙代莉 「秀幸さん?」
絹代 「ああ、ごめん、幸夫君ね。言い間違えちゃった。」
沙代莉 「きぬちゃん、久し振りね。前に会ってから、もうどの位経つかしら。」
絹代 「そうね、もう十年以上は経つかな。姉さん、元気そうね。」
沙代莉 「きぬちゃんも変わりなさそうね。でも、残念だったわね。」
絹代 「何が?」
沙代莉 「オリンピック、無観客になっちゃって」
絹代 「そうね、でも、こんなご時世だからしょうがないかな。」
秀幸 「こんなご時世に東京まで来てもらっちゃってすみませんでした。」
絹代 「いいのよ。たまには大都会の空気でも吸わなきゃ、やってられないわ。」
沙代莉 「きぬちゃん、今回のオリンピックだめだったんだって?残念だったわね。」
絹代 「えっ?ああ、そうなの。もうだめね。引退も考えないと。」
沙代莉 「何言ってるの。オリンピックは四年に一度あるのよ。まだチャンスはあるんだから、頑張ってね。」
絹代 「まあ、そうね。頑張ってみるわ。」
秀幸 僕が最後にどうしてもやりたかったこと。それは、沙代莉と妹の絹代さんを出会わせることだった。沙代莉は、自分の周りから次々と人がいなくなっていく、そんな運命を背負っている女だった。僕は彼女とずっと一緒にいたい。そう思っていたのに、それは叶わないという。だとしたら、僕の代わりに、ずっと沙代莉の側にいる人を見付けてあげなきゃならない。そう思った時、やっぱりそれは血の繋がった姉妹の絹代さんをおいて他にはないと思ったのだ。僕は、素直にそのことを絹代さんに話した、
絹代 最初、秀幸さんから話を聞いた時、俄には信じられなかった。でも、電話口であまりにも真剣に秀幸さんが話すものだから、私もだんだん、そういうこともあるかも知れないと思い始めた。私は、姉に会おうと決心した。どんなに変わり果てた姿であっても、姉を受け入れようと思ったのだ。
沙代莉 「きぬちゃんがだめでも、幸夫は絶対にオリンピックに出るのよ。日本の代表だって、ブラジルの代表だって、どこの国の代表だって構わない。私は幸夫を応援するわ。」
秀幸 彼女の中で、幻のオリンピックが開かれるまで、僕は彼女の側にいてやりたかった。たとえ幸夫君としてだっていい。彼女の中で、僕が生きられるのなら。でも…

ゆっくりと天使が近付いてくる。

秀幸 「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる。」胸に苦しさをおぼえた僕は、とっさにそう言って、二人の側を離れた。
沙代莉 「早く戻って来てね。三人でご飯でも食べましょう。」
秀幸 空港のターミナルビルの広い通路を進み、座れるスペースを見付けた。ふいに力が抜け、僕はそこに倒れ込んだ。
天使 「最後の大切なお仕事、お疲れ様でした。」
秀幸 沙代莉が帰りたかった国とは、もう一人でなくてもいい、誰かと生きていける場所のことだったんだ。僕は、ここが沙代莉の国になるきっかけを作ったんだ。

天使が、秀幸の側に来る。

天使 「さあ、今度は、あなたが国へ帰る番ですよ。」
秀幸 「別れを言ういとまもなかった。」
天使 「今生の別れとはそういうものです。あなたが生まれる前にいた国へ、私がお連れします。」
秀幸 「私がいた、国。」
天使 「途中で迷ったりしないでね、お父さん。」
秀幸 「…楓!」
天使(=楓) やっと本当に会えた。長かった。でも、これからはずっと一緒だよ。四年後も、八年後も、一二年後も。永遠に続く時間の中で。

二人、手を繋ぐ。
そして、ゆっくりと秀幸の帰るべき国=風の彼方の「彼岸」へと渡っていく。

END
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