催眠
 舞台は小さな個室。椅子が二つだけの何もない部屋。
 男と女が入ってくる。
 男は白衣を着ているが、女は私服。
 女ははしゃいでいる様子だが、男は神妙な面持ちで椅子に座る。

女「うわあ、何にもない!」
男「そりゃね」
女「なんかホラ、よーちゃんが昔好きだった広末涼子のポスターとか貼らないの?」
男「今でも好きだよ、広末」
女「女の趣味は変わりないのね」
男「僕は昔から、何も変わったつもりはないよ」
女「嘘だ、こんな立派な白衣着て。えらいお医者さんになったじゃない。よっ、ブラックジャック!」
男「精神科医だからブラックジャックじゃないよ」
女「やっぱ頭いい男は違うね」
男「中学まではありさの方が勉強できてた覚えがあるんだけどな」
女「うるさいな。あたしは高校でエリートコースをドロップアウトしたのよ」

 女、部屋を吟味する。

女「しっかし、壁も床も全然飾りっ気がないね。こんなに何もない部屋も珍しいんじゃない?」
男「目から入ってくる情報を可能な限り排除したかったからね」
女「目から?」
男「余計な情報が集中を阻害する可能性があるんだ。催眠を施すにあたって」
女「ふうん」
男「ありさ……退行催眠ってのはリスクの大きな行為なんだ」
女「目を閉じてるから関係なくない?」
男「え?」
女「催眠ってさあ、こう、目を閉じるでしょ。だから、壁に何が貼られてあっても、見えなくない?」
男「場合によっては目を開けたりもすんの。ねえありさ、退行催眠ってのはリスクの大きな行為なんだ」
女「リスクってどんな」
男「人によっては、解除がうまくいかなくて記憶が混濁したり、性格が変わってしまったりといった例もあるし、そうやって呼び出した記憶も、実は昔の映画や本の話が混じってたりして、必ずしも正確とは言えない場合も多い」
女「へえ」
男「それに……これが一番のリスクだと僕は思うんだけど、過去の思い出をはっきりと思い出すってことは、トラウマもはっきりと姿を現すことになるんだ」
女「なるほど」
男「ありさ、忘れるってのは人間の防衛本能なんだ。過去の思い出ってのは、たいていは美化されて、楽しい思い出だらけになってる。それは、つらい思い出の、その『つらさ』を、少しずつ忘れていくからだ。そして、忘れたことを思い出すということは」
女「忘れたはずのつらさも戻ってくるってことか」
男「ぼんやりとした痛みを抱えたまま、生きていくって手もあると思うんだ」

 女、鼻歌を歌いだす。

男「子守唄、だったっけ、それ」
女「よーちゃん。催眠、やって」
男「どうしても?」
女「よーちゃん。あたし、今幸せなんだ」
男「知ってる」
女「素敵な人と出会えて、結婚出来て、毎日楽しく暮らしてる。でもさ、ダメなんだ」
男「ダメ?」
女「アレが上手くいかない」
男「アレ」
女「怖くなるんだ。あの人が覆いかぶさるたびに。大好きなのに」
男「絶対に無理なの?」
女「なんとか我慢して受け入れようとして、ギュッと目を閉じて待ってたんだけど、それじゃ駄目なんだな。あの人の方がやめちゃうんだ。ありさが嫌なことはできないって」
男「それじゃ駄目なんだ」
女「ダメ」

 男、このあたりから、指で椅子の端を叩き始める。

女「人並みに幸せになりたい。子供だって作りたい。あの人が、あたしを選んでくれたことで、未来をあきらめて欲しくない」
男「未来を明るく照らしたい」
女「うん」
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