シナリオライター

  シナリオライター

男(老人、かつては売れっ子ライターだった。)

  文机
  ソファー
  レコードプレーヤー
  掛け時計
  すべてがアナログ。パソコンなどはないような、書斎。
  男には仕事場である

  男は今、一本のシナリオを書き終えたばかり。

「 ふうーっ。……あ、失礼。溜め息です。
 若い頃は、溜め息なんぞついている暇もありませんでしたし、そんなもの、私の意識の外にありました。それがどうでしょう。近ごろは、ことある毎に溜め息をついている……。
 私ですか? 名前を言ってもご存じないでしょう。以前はテレビなどでよく仕事をしていたんですよ。シナリオライターです。今は『売れなくなった』という形容詞をつけた方が正確ですがね。「代表作は?」と聞かれますと困りますが、色々とドラマの脚本を書いてきました。
 もう辞めにしようと思っていました。なじみのプロデューサー氏が、「気がまぎれるだろう」と、余計な心配をして、廻してくれた仕事を、今、ようやく仕上げたところなのです。若い作家志望の子が書いたプロットを、シナリオにしてくれということで、どうにか、こうにか形にして、渡しました。シナリオには《直し》がつきものです。今度も、恐らくなにか言ってくるでしょうが、すべてお任せしようと思っています。若い頃のように、「一字一句、直させないぞ」という気概からではなく、もう面倒なのです。老体を運んで、子供か孫みたいなスタッフの前で、《本読み》するなんぞは、考えただけでも億劫になります。
 映画やドラマは生き物ですから、その時々の情況を敏感に取り入れるものです。それだけに若い感性が必要です。そろそろ後進に席を譲るべき時期だと、かねがね考えていました。五年程前に大病をして、生活の半分をリハビリに取られるようになってからは、否応なく、仕事から遠ざかり、注文の量も、必然的に減りました。それでも細々と、生活の為に、つまらないテレビドラマなどを書き、食いつないできました。
 今度のシナリオの原案となったプロットは、新人らしい気概に溢れていました。社会の矛盾に目を向け、全編、叫んでいるような、無鉄砲な感じさえしました。新鮮でしたが、プロデューサー氏が、前以て、「製作出来るかどうか、わかりませんが」と、断っていた通り、実現は難しいだろうなと、書きながら感じていました。
 ――そういえば、私にもそんな時代がありました――。今となっては、記憶もおぼろげになってしまいましたが、かつて一本のシナリオを書きました。プロになる前の事です。それこそ社会正義を振りかざし、絶叫しているような内容でした。
 映画会社に勤めている訳でもなく、映画界に何のつてもない者にとってライターへの登竜門として、唯一あったのは、コンクールなどの公募でした。
 私の書いたシナリオが、その、何回目かのコンクールに佳作として入ったのです。「これでプロになれる」と、その時は、意気込みましたが、現実はそんなに甘くなく、仕事どころか、声もかけて貰えませんでした。
 ところが、友人を介して、私の佳作入賞を知った、ある一人の女性が、そのシナリオを読ませて貰えないかと言ってきたのです。私は、少し戸迷いましたが、控えを取ってありましたので、郵送しました。
 数日後、彼女から手紙が来ました。事務用の便箋に、細かい文字がびっしりと、整列していました。彼女は何か自分の人生に物足りなさを感じ、岐路に立ち、迷っているようでした。それが、私のシナリオを読んで、氷解したというのです。繰り返し、感謝の言葉か綴られていました。私は驚きました。恐らく、彼女は何かキッカケが欲しかっただけなのでしょうが、私には、我が作品にそんな力が潜んでいるなどとは、夢にも思っていなかったのです。
 以来、彼女との交際が始まりました。どちらかと言えば、私の方から強引に、といった感じでした。私が、一本シナリオを書き上げるたびに、彼女を呼び出し、原稿を渡しては、また会う約束をして、感想を聞くといった具合です。初めて会った時、彼女は想像していたより、おおらかで、文学少女によくあるような繊細な気難しさは感じられず、爽やかな女学生といった雰囲気を醸し出していました。これがあの悩みの手紙の主かと思う程でした。彼女はときに、私を励まし、ときに、焦りを戒めてくれたりしました。段々と、彼女は自信に満ち、なかなか結果の出ない私とは、立場が逆転していきました。
 もうおわかりでしょう。そうです。私は彼女を妻にしたのです。シナリオならば、こんな陳腐な恋愛ドラマは書かなかったでしょうが……。結婚はしたものの、私は依然として、ライターとして芽が出ず、数年は苦しい生活が続きました。狭いアパート住まいで、妻にも勤めを続けて貰いました。というよりも、妻の収入で、なんとか生き延びでいるといった状態でした。そんな暮らしの中でも、妻は不平を口にするでもなく、結婚以前と変わりなく、私のシナリオの、第一の批評家であり続けました。
 妻の助けもあって、ようやく世に名前が出るようになってからは、下積み時代の反動でしょうか、来る注文は拒まず、あらゆるジャンル、どんなものでも、書きまくりました。刑事物、ホームドラマ、コメディ、SFから時代劇に至るまで、それはもう無節操なくらいでした。他の作家からは疎まれたりもしましたが、その頃の私は「書ければ勝ち」といった気持ちが勝っていました。
 生活も楽になり、曲がりなりにも、我が家を持てるようにまでなりました。当然と言えば当然ですが、妻はシナリオに口を出さなくなりました。私はいつしか、そんなことさえ気にもとめなくなり、注文をさばくことに専念していました。取材と称して、外で遊ぶことも多くなりました。妻は、そんな私をどう思っていたのでしょう。やはり何一つ、不平らしきことを口にしませんでした。あるいは、私の方が聞く耳を持たなかったのかも知れません。
 大病を患って、入院を余儀なくされるまで、私はがむしゃらに仕事を続けていました。今から思うと、いつしか時の流れに遅れていっている自分に気付かないままに、便利に使われていたのでしょう。
 子供をつくらなかったこともあって、私の看病の手間は、妻一人に背負わせてしまいましたが、妻は、なんとはなしに、嬉しそうに働いていました。ときに「夫が病気なのに……」と、私は言葉を荒げたりしましたが、妻は、感情を表に出さず、平然としていました。そんなところが、かえって私には有り難かったのです。
 ……そんな妻が、私をおいて、逝ってしまいました。突然の死でした。私はどうしていいのか、全く、目の前が真っ暗になりました。こんなことなら、五年前に私の方が死んでいればよかったとさえ思いました。家の中で何もしないで、閉じこもっていますと、私の脳裏に浮かんでくるのは、妻の顔です。それも結婚前の、私のシナリオを真剣に批評してくれた、あの時の顔です。
 そんな時間を何日過ごしたことでしょう。おせっかいなプロデューサー氏が、なにもしようとしない私を見兼ねて、仕事を持ってきました。私は断り続けましたが、プロデューサー氏は原稿を置いて、帰ってしまいました。やはり気になった私は、その原稿をパラパラとめくりました。その内に、妻ならば、この作品をどう言うだろう。そんな思いが、私の頭にもたげて来ました。プロになってからのシナリオが総て、つまらないものと片付けてしまいますのは、見て下さった観客の方にも失礼ですけれども、少なくとも、妻にとってのシナリオとは、私との出会いを作った、あのシナリオ以上のものはなかったのではないかと、そして、私も、人の一生を変えてしまうようなシナリオはあれ以来、書けていないのではないか。私は一体、何の為に、何を書いてだろう。そんな風にも思えて来ました。
 そうなのです。私は、もう一本シナリオを書くまでは、筆を折る訳にはいかないのです。これまで、たくさんの他人の人生をこしらえてきましたが、今度は、老体に鞭打ってでも、自分自身のシナリオを、そして、妻に捧げるシナリオを完成させなければなりません。
 私の人生のラストシーンを完結させる為にも、まだ、溜め息をついている時ではありません。どんなシナリオが完成するか、いまから楽しみです。」

舞台が割れ背景にスクリーン
そこに文字

『人は誰でも
優れた一本の
シナリオを書くことができる
自分のことは
自分がいちばん
よく知っているから』
    新藤兼人の言葉
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