その他
長年演劇教育に携わっていると,新たな脚本のネタを日々の出来事の中から探す習性が身についてきます。特に転勤して1年目は,その学校や地域に因んだ題材で本が書けないか色々と考えてしまいます。
私の勤務校である坂元中学校のホームページに気になる記述があります。
文永4年〜興国5年(77年間)南朝の忠臣矢上高純の居城で南北朝のころ,矢上左右衛門高純が終始一貫南朝に勤王し,猛烈に島津氏と戦って玉砕した戦場でその城跡が本校の前にある
その頃薩摩国の守護だった島津家の本拠地は,現在の出水市や薩摩川内市にありました。南北朝の争いに乗じて北朝方から大隈の国の守護の地位を承認され,それに伴い薩摩大隈両国に支配を広げるために現在の鹿児島市への進出(実質的には侵略)を企図していました。
もともと薩摩半島は日宋貿易の拠点となった坊津があることもあり平家の地盤でした。そのため鎌倉時代に進駐軍のようにやってきた源氏方の島津氏と土着の豪族とは大変仲が悪かったのです。例えば島津の分家山田氏と土着の谷山氏の争いは鎌倉時代最長の裁判記録として有名で,南北朝時代に入ると山田氏は北朝方,谷山氏は南朝型に立って戦いました。矢上氏が南朝方に立った理由も同じようなものだったでしょう。
違うのは,結果的に矢上氏と島津氏の争いは島津氏の鹿児島全土の支配のきっかけになったことです。
島津氏は1342年に元々矢上氏の支城だった東福寺城(現多賀山)を落とし,矢上氏攻めの基地としました。都城島津邸文書には、
島津貞久公の時代に矢上左衛門五郎高純が立てこもり、敵対したので、1342年4月1日から同16日にかけて(東福寺城を)攻落した。同じく1343年9月10日より11月7日夜にかけて、催馬楽城(矢上城)を取囲み攻落した。
という記述があります。興国5年は南朝の年号なのですが1344年にあたるため,本校のホームページの記述とは1年の違いがありますが,同じ事件です。
この記述から島津氏に滅ぼされるまでは矢上氏が現在の鹿児島市北部一円を支配する大族だったことがわかります。
矢上氏を滅ぼした後,島津氏は東福寺城そして清水城を本拠とし,鹿児島県一円に分家を広げ,戦国時代に突入していくことになります。島津氏にとって矢上氏との抗争はその後の歴史を決定づける戦いであり,逆の結果ならば,戦国大名として自立したのは矢上氏だったかもしれないわけです。