二人芝居「雨ニモマケズ手帳」
宮沢賢治、原発を怒る
二人芝居(朗読劇)「雨ニモマケズ手帳」(一幕一場)
−宮沢賢治、原発を怒る−
2016.6.29
(この脚本は、2011.8.29に発表した一人芝居「雨ニモマケズ手帳」を二人芝居に書き直したものです。)
【まえがき】
宮沢賢治の一生は津波にはじまり、津波に終わったとも言えそうです。
賢治が生まれる二ヶ月ほど前、明治29年(1896年)6月15日に明治三陸大地震にともなう津波があり、
また、賢治が亡くなる半年前、昭和八年(1933年)3月3日に
昭和三陸大地震にともなう津波がありました。
この昭和三陸大地震の際、知人からお見舞状をもらった賢治が折り返し書いた礼状が最近発見されました。
花巻の自宅で病気療養していた賢治は、大津波をどのように受け止めたのでしょうか。
「被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です。」という手紙の文面から想像するしかありません。
そして今回の東日本大震災、賢治ならこの大災害をどのように受けとめるだろうかと
想像するときがあります。
賢治の遺稿に『雨ニモマケズ手帳』と呼ばれている手帳があります。ご存じでしょうか。
あの有名な『雨ニモマケズ』が書かれているので、そんな名称が付けられたのですが、
亡くなる二年前ごろに書かれたもののようです。私は、その中に大震災を受けとめるヒントが隠されている
ように思うのです。どういうことかは、読んでもらうしかありません。
津波の他に原発の問題もあります。震災に追い打ちをかけるように
原発事故があらたな困難をもたらしています。福島だけではなく、他の近隣県でも。
この芝居は、仮想的に賢治にもう一度津波を経験してもらって、さらに原発の問題にも直面してもらって、
賢治がどのような振る舞いをするかを考えてみようという試みです。
生まれる前と死ぬ前に津波を経験した歴史上の賢治に、未来の賢治が車掌をしている銀河鉄道のタイムマシーンに乗ってもらって、
もう一度今回の津波を経験してもらおうというのです。
賢治の詩や残された手帳の記述を織り交ぜて、
1933年(昭和八年)と2011年(平成23年)が自然につながっていれば、
とりあえずは狙いどおり、二つの津波を経験することができたということになります。
また、賢治が農民芸術概論綱要に書いた「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
という考え方にもとづいて、原発批判も展開しています。
それらが、理屈ではなく、一人芝居としてのリアリティーを持ちえているかどうかは
お客さまにみていただいてのご批判を待つしかありません。お眼鏡にかないますかどうか……、
あとは見てのお楽しみ、とざいとーざーい……。
【登場人物】
宮沢賢治
黒子(未来から来た宮沢賢治)
【はじまりはじまり】
(一幕もので、宮沢賢治と未来からやってきた宮沢賢治の黒子の二人芝居となります。宮沢賢治役に負担が大きいので、前半は朗読劇のように演じる、といった演出もありえます)
(舞台は、宮沢家の座敷。箪笥と座卓、その傍らに火鉢があり、布団が敷いてある。
箪笥の横に簡単な洋服・帽子掛けがあり、そこに制服と車掌の帽子が目立たないように掛けてある。
宮沢賢治、座卓に向かって葉書を書いている。服装は、普段着のみすぼらしい着物)
(黒子(実は未来から来た宮沢賢治)が、舞台の傍らに控えている。控えめに居るのではなく、
宮沢賢治が台詞に詰まったときに助けたり、その他、いろんな補助をして、目立つ方がよい)
宮沢賢治(書き上げた葉書を読む、疲労がにじみ出ている) 「『大木実様』、『四月七日』と……(裏返し)
『この度はわざわざお見舞をありがとう存じます。被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です。
私共の方野原は何ごともありません。何かにみんなで折角春を待ってゐる次第です。
まづは取急ぎお礼乍ら。』(注1)
(読み終わって、葉書を机の上に放り出す)
葉書一枚を書くだけで、こんなに疲れてしまうのか。
自分で思っている以上に病状が進んでいるのかも知れない。
早々にお見舞いをもらいながら、どうも気力が湧かなくて、
返事を一日延ばしにしてきたのが、一月も遅れてやっと今晩書き上げることができた。
大木さんには、ほんとうに申し訳ない……(と、葉書をいただいて頭を下げ、もう一度文面を眺める)。
(激しく咳き込む)
『海岸は実に悲惨です』と書いてはみたが、この目で見たわけではない。弟の静六から聞いただけ。
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