エンプティ、或いはモラトリアム
1.必然


(薄暗い舞台。どこかから不思議な旋律の音が流れている。四方は幕に囲まれ、
およそハケがどこにあるのかすら分からない。舞台の下手には語り部が立っている。
手には聖書のような本。語り部、それを厳かに開き、読み始める)


語り 偶然とは、偶発的に起こったことを指す言葉だ。
   もし偶然より確率の低いことが起これば、それはきっと奇跡と言うべきなんだろう。
   しかし、もしそこに誰かの意志が含まれていれば、それは偶然ではないし、奇跡で
   もない。
   それは偶然の反意語……必然と言わなければならない。
   だとすれば、私があの光景を見たことは、やはり「奇跡のような確率の必然」と言
   えるのだろう。


(男、極めてゆっくりと、幕の隙間から出て来る)


語り 私は男だ。それ以上の名を持たぬ、ただの男だ。その単純明快な名前しかないこの
   私が、何の目的も持たずに家の裏手の小さな道を歩いていると、ふと、何の意味も
   無く立ち止まろうかという気になった。
   元々私に目的などなかった。だから、立ち止まってしまえば、歩いていた時と同じ
   ように、無意味にその行為を続けてしまうことになる。
   空は、青かった。ところどころに、溶かした石鹸のような雲が佇んでいて、それが
   人工的なほど青い空を更に青く見せていた。


(男、空を見上げている。間)


男  (放心したように)いい、天気だ。

語り 誰に聞かせるでもなく、無意味な感想を吐いてみる。何も変わりはしないから、無
   意味なのだ。何も変えられず、変えようともしない、言葉。世の中に、これほど無
   意味な人の発明品があるだろうか?


(男、自らに恥じ入るように下を向く)


語り 私の心は病んでいた。無意味なものに支配されていた。私はそんな自分に気付き、
そして少し恥じた。どうにかここに意味を作ろう。その無様な思いから、これまで
の自分にけりをつけるべくもう一度空を見上げ、そして……私の目は、凍りついた。


(女、幕の上から顔を出す)


語り 空の青と、溶けた石鹸の隙間。その間から、人が、ゆっくりと顔を出した。
   女だ。女の顔が、真昼の月のように、場違いな存在感を持って雲の隙間から覗いて
   いる。
   異様な光景。しかし私はまず、己の目を疑ってしまった。人の顔が雲の隙間から覗
   くはずがない。しかし、私の目は正常だ。目などこすらなくても、そんな唐突な事
   故が我が身に起こった実感など何も無い。
   となれば、次に疑われるのは、私の精神だ。この遠近感の狂った光景は、そこに行
   き着かなければ到底説明がつきそうにない。
   私の意識は、どこにあるのだろうか。短時間とはいえ、無意味に支配されていたこ
   とが、このような幻を見せているのだろうか。
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