夢幻回路
夢幻回路

 沈黙の闇。微かに微かに機械音。チリチリ、ピリピリ、ガンガンガン。未来派の音楽の様に、やかましく響く。それが強まるにつれて、心臓の鼓動音が重なる。その音に合わせて、視界が血の色に明滅する。ドクン、ドクン。
 舞台中央に男が一人。胎児の様に丸まり、鼓動の音に合わせて脈動している。まるで心音から血液を全身に受けている様。音、うねる。男、のけぞる。それがピークに達するや、ピー!!という甲高い音が全てを飲み込む。
 男、しばし身を震わせていたが、やがて、目覚めた様に上体を起こし、辺りを見回す。そこは、ボゥッと蛍光色に照らされた殺風景な部屋だった。窓も扉も無い、硬質な灰色の壁に囲まれている。舞台上に机と椅子。机の上には電話機、封書が一通。机の下にラジカセ。ピー!!という音は受話器の外れた電話機から出ていた。男、それを戻す。音止む。それらを観察するしばしの間。男、床のラジカセのテープを回してみる。絹を引き裂く様な女の悲鳴と殺害の音。狼狽する男。止めたいが止められない。耳を押さえうずくまる。やがて音が止む。男、恐る恐る近づくと、ラジカセから人工的な甲高い笑い声。

声   おい、聞いてるか…聞いてないのかイチマル…いや、違うかもしれないな…違っても良いさ。お前がイチマルであれ誰であれ、そんなことはかまわんのだ。うふふ。聞いてなくてもかまわんのだ。つまり、このテープがここにあり、こうして回っているって事だけで十分なのだ。」
男   な、何を言っているんだ?
声   ”何を”だって?下らない事を聞くな。こーゆーことだ!

 殺害の音。

声   お前が感じている通りの事だ。
男   ひ、人殺し!?
声   ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!人殺しか!!なるほどそうだ。俺は人殺しって訳だ。殺人鬼。虐殺者。良い響きだ。文字を思い浮かべただけで、背筋がゾクゾクする。いいね。いいよ。
男   お、お前は…。
声   失礼だな君は!!ひゃひゃひゃひゃ…他人に名前を聞く時は自分から名乗るものだよ。ええ!?
男   僕は…。
声   ”ぼくは”…なんだい。君は誰だ?ん?是非拝聴したいね。僕をお前呼ばわりする、君の名を。さあ!!
男   僕は…あ…え…。
声   ほらほら。誰なんだ君は。黙ってちゃわからんよ。沈黙は金か?喋って得る富に比べたら端金だ。さあさあ、名乗ってくれたまえ。僕の方は名乗りたくて先刻からウズウズしているんだから。
男   うるさい!!急かすな!!…そう、ちょっと度忘れしているだけだ。すぐに思い出す。
声   すぐに…思い出して頂きたいね。そうしなきゃ、君と言う存在は無くなってしまうんだから。

 男、殺されるのかと、恐怖に顔を歪める。

声   どうした。だってそうだろう。君と他人とをわかつものは一体なんだ?人と人の違いなんて、実にあやふやなものだよ。身体つきか?性格か?なるほど、それは良い。先天的に君に与えられたものだからね。だが、整形という手がある。洗脳という手もある。後天的に修整が効く世の中だ。そして、ここには君と比較すべき他者が存在しない。名前は他者によって後天的に与えられたものだが、それは君の全てを内包する言霊だ。君がもし"佐藤八郎"なら、整形しても、狂っても、死んで土に帰っても"佐藤八郎"のままだ。
男   佐藤八郎だ!それが僕だ!!

 沈黙。

声   いいのか?佐藤八郎でいいのか?
男   うそです。ごめんなさい。
声   まあいいさ。僕は君の名前を知っている。
男   なに!?
声   でも、言わない。君の口から聞きたいなぁ。
男   教えてくれ。
声   そーゆー他人に依存する態度はいけないなぁ。君らしくない。
男   う、うるさい!!僕がどんな奴かなんて知りもしないで。
声   じゃあどんな奴なんだ。僕は君を知っている。
男   僕だって、僕を知っている。
声   へえ、じゃあ…。
男   待ってくれ!もうすぐ思い出すから。…そうだ、君こそ名を名乗れ。礼儀だろ。
声   うふうふうふ、言うと思った。いいだろう。僕は佐藤八郎だ。
男   うそだ!!
声   うそだ。本当はシュトルム=フォン=ミュンヒハウンゼン男爵だ。
男   それもうそだ!!
声   しかしてその実体は!?
男   実体は?
声   …やめた。
男   え?
声   どおだって良いよ。僕が誰だって。
男   良くはないよ!名乗れ!
声   おやおやだ。自分の名前さえ分からん御仁が。…うふうふうふ。まあ、君のそんなところが好きなんだけどね。
男   なに!?…ぼ、僕はノーマルだ。
声   そんな事は気にしないよ君のことを一番理解しているのは僕だ。壊れてしまった今だって、君を見捨てはしないよ。
男   こ、壊れてなんかいない!!
声   かわいいなぁ。慌てちゃって。ああ、壊れていない。僕は信じているとも。だから、僕のお願いも聞いてくれるね。
男   お願い?
声   そうとも。簡単なことだ。…そこを今すぐ脱出して僕のところへ来てくれたまえ。そうだな…三十分以内で。良いだろう?
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