サトル
「サトル」
◆まえがき密室の男と女。ふたりはなぜ出会ったのか。なぜさまざまな人物に変異するのか。ふたりはそもそも何者なのか。重なるように見えたふたりの会話はやがて……
◇登場人物 男(先生、父、サトル) 女(母、マリコ)
◆一場幕が上がる。濃く暗い青の世界。舞台中央の女と男にゆっくりとスポットライトがあたる。
男 その小さな手は、透き通るように白く、どこまでも精巧にできていた。かすかな弾力があり、体温まで感じるほどだった。指はなめらかに曲がり、そして動いた。彼女は、それほど人間そのものだった。僕は、彼女を何時間でも見つめ、そうして彼女の大きさにあわせて僕が作った箱の中にしまい込んだ。その時僕は、とても幸せだった。
男、女の髪を櫛でとかす動作をする。
男 なんてきれいな髪なんだ。この髪はおまえの象徴だ。
スポットライトがゆっくり消え、水滴の音が聞こえてくる。女はエプロンを身につけ、男はネクタイとジャケットを身につける。水滴の音はやがて小さくなり、消える。
◆二場明転
母 先生。いつもサトルがお世話になっています。わざわざ遠いところまで来て下さって、ありがとうございます。先生 いえいえ、これが私の仕事ですから。
先生、中央の箱の脇に座る。母、先生にお茶を出す。
先生 それで、サトル君は今どうしていますか?
母 体調はだいぶいいみたいなんですけど、やっぱりなかなか学校へは足が向かないみたいなんです。私も主人も本当に困っていまして。
先生 それで、サトル君は今、どこにいますか?
母 今は、自分の部屋にいます。今日は具合が悪いと言って休んでいますが……呼んできましょうか?
先生 いやいや、具合が悪いんであれば、無理には会わない方がいいでしょう。部屋に押しかけるのもなんですし。
母 そうですね。ご心配ばっかりおかけして。
先生 いえいえ、いいんですよ。ところでお母さん、サトル君が学校に来られなくなった理由なんですけれども。お母さんには何か言っていますか?
母 それが……特には何も言わないんです。私も主人も、どうして行けないのって聞くんですけれど。
先生 私も、サトル君に、この間聞いてみたんです。クラブの先輩との関係は大丈夫か? 友人とのことで悩んでないか? ……でも、彼はいつも笑って否定するんです。「そんなことありません。誰かに暴力をふるわれたり、金を取られたりもないです」って。高校に入学したばかりで、まだ友人関係ができていないということもあるだろうし、学校自体に慣れてないっていうのもあるとは思うんですけれど、でも、こういう、何かが始まったり、何かを始めようっていうときは、そういうのって乗り越えなくちゃならないんですよね。私も注意して見ていたんですが、学校に来ていた時のサトル君は、クラスのみんなとも笑顔で仲良くやっていたようですし……。
母 主人とも、よくそう本人に言って聞かせるんです。せっかく第一志望の学校に入れたのだから、もったいないじゃないかって。もし、登校できないはっきりとした理由がないのなら、それはただのサボりだって。
先生 まあ、そうきめつけなくてもいいでしょう。ただ、高校は、中学とはちがって、欠席があまりに多いと、進級できなくなってしまいますので、そこが困ったところなんです。それでカウンセリングを受けてはどうかと、先日ご紹介したんです。
母 サトルと主人ともよく相談をして、どうするか決めたいと思います。その時には、先生、よろしくお願いします。
先生 お母さん、そんなに恐縮がらなくていいんですよ。サトル君は、今、大人になるために悩んでいる時期なんでしょう。それからお母さん。サトル君の言うことをよく聞いてあげて下さい。こういう時には、受容的態度が必要なんです。
母 ジュヨウテキタイド?
先生 はい。受容的態度です。相手の言うことをそのまま聞いて、そのまま受けとめてあげるのがいちばんいいんです。長い目で、サトル君については見ていきましょう。
母 先生には本当によくしていただいて、主人とも感謝しています。本当にありがとうございます。
先生、お茶をすする。
先生 ところでお母さん、趣味は何ですか?
母 はい? 趣味ですか?
先生 はい、趣味です。
母 ……たまにデパートに行くことかしら。一番上の階までエレベーターで上がって、順番に見て回るんです。疲れると、喫茶室でお茶をいただくんです。
先生 それは……お母さんの趣味ではないですか? 私がお聞きしているのは、お母さんのことではなくて、サトル君の趣味です。
母 ああ、サトルのですか。勘違いしました。
先生 そうです。サトル君のです。今はサトル君についてお話ししているんです。ギターが好きだとか、パソコンをいつもいじってるとか。
母 趣味……?
先生 無いんですか? 趣味。
母 サトルの趣味? ……特に無いんじゃないでしょうか。
先生 珍しいですね。ゲームが好きだとか、バンドを組んでいるとか、普通はそういう趣味があるんですけれども。
母 普通は、ですか?
先生 はい、普通はそうです。
母 それじゃ、何ですか。サトルは普通じゃないとおっしゃりたいんですか?
先生 いや、そういうことじゃないんです。ただ、趣味は何かなーと思っただけでして。サトル君が普通か普通でないかという問題ではないんです。
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