『影を越えて』
1場   誰か一人を
赤ん坊の鳴き声。
母   「あー、ごめんね。起きちゃったね」
赤ん坊をあやす母と二人の祖母と思われる人物。
父   「ああ、大丈夫?」
義父  「こんな朝早えのに、お前が見送ってもらようるけぇじゃろう」
母   「いえいえ、お義父さんいいんですよ。ナオにとったら、またしばらくパパに会えなくなっちゃいますから。私が一緒にお見送りしたかったんです」
義父  「晴香さん、こいつのことは甘やかさんでええんですよ?里帰りが終わったら、
バシバシ使ってやってください」
父   「父さん…。でも、困ったことがあったらいつでも言ってね」
夫婦、微笑み合う。
義母  「さて、身体も冷やしたらいけんし、名残惜しいけどお別れかな」
祖母  「そうですね。またいつでもいらしてくださいね」
父   「そんな、今は大変な時期でしょうから。お気持ちだけありがたく頂戴します」
父、赤ん坊と母に向き直って。
父   「じゃあな」
赤ん坊の笑い声。
母の家族と、父の家族と別れを告げる。
赤ん坊とすれ違うように大学生が入ってくる。大学生はつい、母に抱かれる赤ん坊を見てしまう。
雑談をしていた集団客の近くに座り、資料を広げる。
集団客1「まあ、あんたボランティア行くん?」
大学生 「え……」
集団客1「ああ、ごめんごめん。つい見えてしもうて」
集団客2「もう、勝手に人様のもの見たらあかんやろう、ごめんなこの人もう『おばちゃん』じゃけえ」
集団客1「でも、こんな若いのにボランティアなんて、立派やわぁ」
大学生 「あ……まあ。ありがとうございます」
受付   「お客様方―っ。お客様方―っ」
バスターミナルのなかの様子を確認しつつ、再度声を掛ける。
受付   「山陽セントラル高速バス「ミライ」5時22分発をお待ちのお客様。ご予約に
関するお詫びとご説明を致します。ご用意する車両にやむを得ず変更がありました。その関係で、大変申し訳ございませんが、どなたかお一人様のお客様のキャンセルをいただかなくてはなりません」
義父   「そんなん言うても、私ら家族なんじゃけえ一人だけ置いていくわけにもいかん
でしょう」
義母   「団体はまとめて乗せてもらえるんじゃろ?」
受付   「はい、団体のお客様は1団体で1予約となっております。従って、個人のお客様からキャンセルをいただく形となります」
父    「ほら、言うたがあ」
義父   「でも心配するがぁ」
集団客1「よかったよかった」
集団客2「そんなん言うたら個人のお客さんにわりいじゃろう。(横目で他の客を見ながらひそひそ)誰か降りんといけんのじゃけえ」
集団客1「(ひそひそ)そうじゃった」
義父   「あの、ほんでバスはいつ出るんですか」
受付   「ちょうど1時間遅れまして、6時22分発車となります」
団体客たち、ひそひそ話。ゆっくり、順次、バラバラと席を立っていなくなる。
あとには、会社員、大学生、研修医、青年、少女が残るのみ。
受付   「お客様のなかで、どなたかおひとり、ご予約をキャンセルいただける方はおられませんか」
憤りや困惑、重苦しい空気が流れる。
青年  「あの、キャンセルになった場合、その人はどうなるんですか?代わりの輸送の
JRとか、次の高速バスとか、そういったものは用意されるんですか…」
受付   「代わりの便については……ご本人様に再度ご準備していただく形になるかと」
研修医 「ないんですか?」
受付   「誠に申し訳ございません。当社都合でのキャンセルとなるため、料金については全額お返しさせていただきます。」
青年  「でも誰かが、乗れないんですよね……」
研修医 「つまり、目的地に行けない人間を一人を決めろってこと、ですよね」
受付   「……6時22分発車で、その10分前までには乗車確定できればと思いますの
で…後ほどお声かけいたしましょうか」
誰も、互いに目を合わせようとしない。少しの間。
受付  「それでは……失礼します」
受付、深く頭を下げて立ち去る。
少女   「あの! ……お願いします。どなたか、どうか、席をゆずってください。お願いします」
少女はできる限り低く低く頭を下げる。

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