胡蝶の夢
胡蝶の夢 作・小田春
時間:約10分
人数:3人
小説家
獏
筆者
小説家、目を覚ます。
小説家 「…ああ、夢か」
筆者 「夢を見ていた。それはそれは素晴らしい夢だった。私は夢の中で一匹の美しい蝶になっていた。私の羽は目が眩むほど鮮やかな青だった。羽ばたく度に日の光を受けて宝石のようにきらきら光った。私は花畑で踊るように飛んでいた。そこには水、光、花、私が必要とするもの全てが満ち足りていた。本当に素晴らしい夢だった。もう少しこのまま、と願った途端、目が覚めた」
小説家、ふと机に視線を移す。
筆者 「目の前には書き途中の原稿用紙。どうやら仕事中に眠ってしまっていたらしい」
小説家 「…また失った」
筆者 「私はひどく落胆した。もう一度眠ればあるいは、とも思ったが、すぐにやめた。得てして綺麗なものとはそういうもので、きっと足りないくらいが丁度いいのだ。そう思って顔を上げた途端、私は息を呑んだ。そこには、それはそれは素晴らしい夜があった」
小説家、窓に歩み寄る。
筆者 「開けっ放しの窓からは、まるで夜が息をするように柔らかな風が入ってきて、カーテンを揺らしていた。深く透き通った空には星が丁寧に刺繍されていた。そして、美しい満月が浮かんで、辺りを静かな優しい光で満たしていた。それはまるで夜の陽だまりか、月光のベールだった。あまりにも美しくて、私は悩んだ」
小説家 「これは、夢か?」
獏 「いい夜だね」
筆者 「突然、部屋の隅の暗闇で声がした。瞬間、私の体中の神経が沸騰した。誰だ? どこから入ってきた? 誰か? いや、そんなことを考えている暇はない。まずは逃げなければ。私が黙っていると男は再び声を発した」
獏 「月が綺麗だね。…あ、これ、何だか告白みたいだ」
筆者 「その言葉を聞いて、私は逃亡をやめた。いや、それが正しいとは言えない。すぐにでも逃げるべきだったのだ。が、私は暗闇の中の誰かに釘付けになってしまった。不思議な声だった。少年のようでもあり、老年のようでもあった。照れたように笑う彼はどうやら『月が綺麗』という言葉のもう一つの意味を知っているらしい。いや、すぐにでも逃げるべきだったのだ。が、それでも、私は願ってしまった。この、不思議で詩的な青年と、話をしたい」
小説家 「…夏目漱石」
獏 「そう。知ってる?」
小説家 「…ああ。アイラヴユーの和訳だ」
獏 「そうだね」
小説家 「夏目漱石は日本人の奥ゆかしさを考慮して_」
獏 「でも…ふふ」
小説家 「なんだ?」
獏 「そのつもりはないから勘違いしないでね。本当にただ、月が綺麗だって言いたかったんだ」
筆者 「青年の声は夜のように静かだった。私はぼんやりと思った、ああ、これは夢だ」
獏 「素敵だよね。月が綺麗だって告白するのも、愛する人を月だって思えるのも」
小説家 「ああ」
獏 「『死んでもいいわ』は何だっけ?」
小説家 「それは『月が綺麗だ』に返す言葉だ。二葉亭四迷(ふたばていしめい)のアイラヴユー」
獏 「ああ、そうだ。僕そっちも好き」
小説家 「ああ、分かる」
獏 「…本当に月が綺麗だね」
小説家 「そうだな」
獏 「僕、君の隣に行ってもいい?」
小説家 「…構わない」
獏、ゆっくりと小説家に歩み寄る。
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