月を掃除した女
月を掃除した女
作 松永 恭昭謀
※一人芝居を想定して書いています。

彼女は清掃の仕事を気に入っていました。潔癖症で人間と付き合うのも苦手で、深夜の清掃員のほかに、続かなかったというのもあったのですが、汚れた床や部屋を黙々とキレイにしていく作業が彼女の性格にもあっていました。

ただ清掃っていっても、色々考えることはあるんです。どんな汚れかとか、どうやってそれを落とすとか、どういう薬品を使うか、どういう道具を使おうかとか。色々考えて、やっていくうちに上手くなっていく。そうすると、どんどんどんどん、早く終わったり、よりキレイになっていくのが目に見えてわかるんです。それは達成感っていうんですかね。

ある日、ビルの屋上で休憩をしている時に、香水の甘いにおいをプンプンさせた同僚の若い男が彼女に話しかけました。

月、月ですよ。月、キレイに見えますね。
そうですよ。今日は十五夜ですよ。十五夜。
知らないんですか。十五夜。
子供の頃にね、夜、車の窓から月をよく見てたんですよね。だって車に乗ってるときって、ほかに見るものないじゃないですか。だから、ぼうっと月を見て、どんなところかなって思ってたんですよね。
そうだ。月へ行きませんか。そう、あの月ですよ。月。
なんで月に行きたいか。だって月ってキレイじゃないですか。

彼女は彼が何を言っているのか、あまりよく分かりませんでした。ただ仕事をして寝るだけの彼女は知らなかったのですが、今、人類は月への移住を進めていました。それどころか、月への移住を足掛かりに火星への進出も現実的な段階でした。

むなしくない? 同じ事ばっかりで。
だってキレイにしてもきれいにしても、また次の日に来たら汚れてる。生産性のかけらもないし。

生産性。
彼女はその言葉を繰り返した。
男が眠った後に、彼女は自分の部屋の窓の外に、月が浮かんでいる事に初めて気づきました。青い空に薄く白い月は、ただそこにあるだけで、彼女にはなにも感じられませんでした。だけど、そこに自分が立っている所を想像すると、逆に自分はなぜここにいるんだろう。という疑問が湧いてきました。

地球に生まれたからって地球に住まなくちゃいけない事もないと思うんだ。自分がしたいことをしたい場所で、一緒にいたい人といればいいんじゃないかな。

宇宙船から窓の外を見ると、本当に真っ暗で、遠くに転々と星があり、大きな大きな地球がそれをさえぎっていました。若い男は興奮して窓の外を眺めていましたが、彼女は目をつむって、これまでとこれからの生活の事を考えていました。

どうして掃除をするのかって。それは、生きている。って事を確認する事なんだよ。だって死にたけりゃ掃除なんてしないだろ。意味がない。整理整頓して、清潔にするってことが、自分が生きていくっていう行動の現れなんだよ。

月の移住空間は、彼女が想像していたよりも清潔な場所でした。限られた資源を有効利用しなければならない環境で、そもそもゴミが少なく、清掃というよりも、消毒に近い感じで、機材の点検をしつつ、決められた場所に消毒液を散布していくだけでした。

こんな事するために、月にきたんじゃねえよ。

男の香水の匂いが鼻を突く匂いに変わっていました。

なにって、こんなことだよ。地球でやってる事と変わらないだろ。
だからなにをって。なにかだよ、なにか。ルール、ルール、ルール。汚い地球の汚れた人間が決めたルールなんか守って意味があるのか。あいつらは何もわかってない。あいつらこそ消毒してやればいい。

よくわからない。

と彼女が答えると、男は急に黙って、二人の部屋を出て行って、もう戻ってきませんでした。

オレは選ばれたんだよ。月を守るために。

次の日、清掃業務に向かうと、初老の男とペアを組むことになりました。その初老の男はかなり口数が少なく、彼女はとても楽だなと思いながら黙々と清掃をしていきました。初老の男は、なにがとはいえないのですが、ちょっとした技術なのか、自分よりも上手だなと思うことがあった。ある日、休憩室で、彼女は初老の男に、どうやったらそんなにキレイに掃除できるのか尋ねました。初老の男は、彼女が無視されたのかと思うほど長い間の後、一言、ぽつりと答えました。

汚れるとかキレイとか私には分かりません。

彼女は初老の男が何を言いたかったのか分からなかったが、それ以上聞くのもやめました。休憩室から出ると、地球から一緒に来た若い男が、派手な格好の知らない女と並んで立って、群衆に囲まれて何か叫んでいました。一瞬だけ、彼女と目が合ったが、若い男は、表情も変えずに叫び続けていました。

皆様、月の環境を良くしたい。そう思いませんか。はるか故郷たる地球をはなれ、この月は我々の第二の故郷となっていくのです。それを、遠く離れた頭の固い政治家のいいなりでいいのでしょうか。我々の権利は我々で手に入れようではありませんか。まずゴミ問題です。今現在、ゴミをためる場所ですらろくにありません。さらにその上、ゴミを出す量を削減する為に、食糧の無駄な廃棄ロスの軽減、その為に、一日の食糧を減らす。これは月の人間にとって死活問題ではないでしょうか。娯楽のない月では、食事こそが最重要であり、人間の生きる力ではないえしょうか。さらに、今度は生活エリアの分離をしようとしています。人間の行動を制限すればそもそものトラブルが解消されるというのです。しかしそれは彼らの都合の良い理屈です。ただ分断を招き、自分たちに都合の良い人間をよりよい環境に、そうではない人間はより劣悪な環境に押し込めようとしている。月の事は、月に住んでいる人間が一番わかっているのです。しかし私が地球の管理官に提出した清掃の改革案は、鼻であしらわれ、私は外出を禁じられ、ただ黙々と掃除をするように命じられてしまいました。我々の真の敵は汚れでも、ウイルスでもなく、人間だったのです。今こそ、我々の人間としての尊厳を勝ち取ろうではありませんか!

ある日、一緒に地球に来た若い男は死体で発見されました。彼女が清掃作業をしているときに、ゴミ集積処理場で見つけました。彼女が呆然と立ちつくしていると、初老の男が、何事もなかったかのように黙々と報告し、遺体を運び、そして戻ってきて清掃を続けました。彼女はその間、何もすることができませんでした。全てが終わった後、、休憩室で彼女が.床を見ていると、初老の男が珍しく話しかけてきました。

空を見たことがありますか。
空ですよ。ほら、ここの空です。
あれが地球ですよ。
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