一人前の板前
『一人前の板前』 岡本ジュンイチ・脚本

登場人物

森川貴子 ・・・ 中卒の板前見習いの女子。勝気な性格。
辰巳早苗 ・・・ 板前割烹『ほほえみや』の板前店主。
有馬拓人 ・・・ 新富裕層のブロガー。『ほほえみや』の常連客。

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時は2020年。
裸舞台の上には、一つのテーブルと、2つの椅子が置いてある。
しばらくして、板前見習いの森川貴子と、板前店主の辰巳早苗が登場。

早苗「そこに座って」
貴子「どうしたんスか、親方」
早苗「いいから座って」
貴子「……」

貴子、椅子に座る。
貴子が座ったのを見て、早苗も椅子に座りだす。

早苗「今日、あんたをここに呼びつけたのはね、大切な話をしたかったからだよ」
貴子「大切な話?」
早苗「そう」
貴子「どんな話なんスか?」
早苗「……いいかい。落ち着いて聞いておくれよ。実は……この板前割烹『ほほえみや』を、閉めようと思ってる」
貴子「……ええ? 何でです、親方。理由を説明してください」
早苗「そんなのわかってるだろう」
貴子「わからないですよ」
早苗「コロナのせいだよ」
貴子「……」
早苗「貴子。あんたもわかるだろう? ウチの経営はここ半年間、ずっと赤字だ。持続化給付金で、今はなんとか店の赤字を埋めてはいるけれど、正直そのお金だけじゃ、足りないんだよ」
貴子「何言ってるんスか、親方」
早苗「本当に、申し訳なく思ってるよ、貴子。もう、何て言えばいいのか……」
貴子「ウソですよね?」
早苗「(首を振る)」
貴子「そんな……。ウソだと言ってください。どうせ親方のことですから、あたしを驚かしたいだけなんでしょう? ねえ、そうでしょう?」
早苗「…………」
貴子「ウソだと言ってくださいよ。ね? 冗談なんでしょう?」
早苗「これが現実なんだ」
貴子「……あたし、一生懸命働いてましたよね? この割烹のために、必死に料理をつくり続けてきたじゃないですか。なのに、どうして……」
早苗「それは申し訳なく思ってる。私の実力不足だ。すまない」
貴子「あたし、親方と一緒に仕事したいんスよ! どんな状況になっても、親方のもとで生きていきたいんス!」
早苗「それはどうしてもできないんだよ!」
貴子「お金なんていりません。せめて、一緒に料理を続けさせてください。お願いです。お願いですから……」

しみじみとした音楽。

早苗「……どうしてお前は、ウチで働くことにこだわるんだい。ウチで働くよりも、よその大手で働いた方が給金はいいだろう? なのに、どうして……!」
貴子「今でも忘れません。あたしが初めて上京してきたときに、親方はあたしに、一杯のご飯をくれました」
早苗「そんなことをした覚えはないね」
貴子「いいえ! 親方も本当は覚えているのでしょう? 私が9年前、路頭に迷ってたときのことを、親方ははっきりと覚えているはずです」
早苗「忘れたね」
貴子「ウソをつかないでください」
早苗「ウソなんかついてないよ」

しばらく互いをにらみ合う早苗と貴子。

貴子「あたしは、あたしが受けたあの時の恩を、忘れたことはありません。一度たりとも。そう、一度たりとも!」
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