果ての釣り人
詩:(指先から伝わる、冷たい鍵盤の感触。)
詩:(跳ねるように、指を運び続ける。)
詩:(今日も、あなたが好きだった音を奏でる。)
詩:(「イルカが跳ねるようだ」と、褒めてくれた。)
詩:(私はイルカも、青い海も見たことがないけれど、あなたが聞かせてくれる話を想像するだけで、楽しかった。)
詩:(元気でいますか。)
詩:(また、たくさん話を聞かせてくれますか。)
詩:(変わらない大きな手で、私の頭を撫でてくれますか。)
0:水平線を臨む防波堤。
0:釣り人が一人、ルアーを揺らしている。
0:その背中に、詩が語りかける。
詩:こんにちは。
釣り人:ああ、詩(うた)ちゃん。
釣り人:こんにちは。
詩:一週間ぶりですね。
釣り人:ん、そうだっけ。
釣り人:そんなに経つか。
釣り人:どうも時間の感覚が鈍ってるな。
詩:今朝方、大きな飛行機が通ったでしょう。
釣り人:ああ、うん。
詩:あれ、週末によく聞こえるから。
詩:あの音で気が付いたんです。
詩:一週間経ったんだってこと。
釣り人:なるほど。
詩:となり、いいですか?
釣り人:ああ、気を付けて。
詩:ありがとうございます。
0:釣り人のとなりに腰掛ける詩。
詩:……釣れてますか?
釣り人:そう思うかい?
詩:聞いてみただけです。
釣り人:ビンの欠片に、破れたビニール。
釣り人:ああ、昨日は靴が釣れたな。
釣り人:随分とゴツい、軍のやつだろう。
釣り人:参ったね、この調子だと、すっかり綺麗にしちまうよ。
詩:良いことです。
釣り人:はは、そうだな。
0:風が凪いでいる。
詩:(私は、この人のことをよく知らない。)
詩:(知っているのは、毎日のように釣りをしていることだけ。)
詩:(私のピアノの音を聴きながら釣りをするのが楽しみだと言う。)
詩:(私も、よくここへ来る。)
詩:(あなたが今日にも帰って来るかもしれないと、汽笛の音を聴き逃さないように。)
釣り人:何かあったのかい?
詩:え?
釣り人:こんな、長いこと来なかったのは、珍しいからさ。
詩:……。
釣り人:詩ちゃん?
詩:母が、亡くなって。
0:釣り人が手にしていた釣り竿が海に落ちる。
0:時が止まってしまったかのような静けさのなか、さざ波が釣り竿をさらっていく。
0:沈黙に絶えられなくなった詩が口を開く。
詩:……あの?
釣り人:……。
詩:あの、どうしたんですか。
詩:大丈夫ですか?
釣り人:……いや、こっちの台詞だよ。
釣り人:そうか、お母さんが。
詩:はい。
詩:でも、ずっと寝たきりだったから……。
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