喫茶・浜木綿の風「あんみつ」
(ボイスドラマ・舞台演劇)
【ラジオドラマ】喫茶・浜木綿の風
「あんみつ」
作:澤根 孝浩
−登場人物−
・ナレーション
・河原崎 美加(36)
・深沢 志郎 (61)
ナレ:浜松市の片隅にある小さな喫茶店・浜木綿の風。午後二時、店内には店主の河原崎 美加だけであった。
(SE)ベルの音、カットイン。
美加:いらっしゃいませ。
ナレ:入ってきたのは、六十歳ほどだろうか、白髪を短く切り揃えた男性だった。背が高 く、引き締まった体の、凜とした風貌である。河原崎美加は一度訪れたお客の顔を 忘れることはない。すぐに初めてお客だとわかるが、そんなことは顔に出すことな く、どうぞお好きな席に、と明るい声で案内をする。
深沢:あんみつをいただけますか?
美加:え……。
深沢:あ、もしかして、あんみつはメニューにありませんでしたか?
美加:はい、残念ですが、でも……。
深沢:そうでしたか。申し訳ない。えっと……。
美加:安心してください。メニューにはありませんが、ご用意できます。
深沢:そうなんですね、よかった、よかった。あんみつが美味しいと聞いていたので、他 に考えていなくて。
ナレ:あんみつを待つ間、男性は店内を見渡していた。その眼差しにはどこか優しい色が あった。五分ほどが経ち、あんみつをお盆に乗せた河原崎美加がカウンターから姿 を現した。
美加:お待たせいたしました。あんみつです。
深沢:ありがとうございます。聴いていたとおり、くだものがたくさん乗っていて美味し そうだ。
美加:失礼ですが、深沢さんのご主人ですか?
深沢:あ……はい。しかし、なぜ。
美加:やっぱり。深沢さんからご主人にこの店のあんみつが美味しいんだとお話をされた と聴いていたものですから。ずいぶん前のことですが、それを覚えていたんです。
深沢:家内がそんな話をしたんですか。しかし、ここのあんみつの話を聞いたのも、もう 三年ほど前です。来るまでに長い時間が過ぎてしまいましたね。
美加:いえいえ、お越しいただいて嬉しいです。ありがとうございます。最近は、お越し になりませんが、今度は、奥様もご一緒に是非お越しください。
深沢:……残念ですが、妻はもうこちらには来られません。
美加:え?
深沢:半年前に亡くなりました。
美加:そんな……あんなにお元気だったのに。
深沢:良くない病気が見つかって、そのときにはあまり時間は残されていませんでした。
美加:存じ上げず、失礼しました。
深沢:いや、こちらこそご報告が遅くなってしまって。
美加:……。本当に残念です。奥様……深沢さんにはたいへん良くしていただきました。 いついらっしゃっても明るく、いろんな話をしてくださって、元気をいただいてま した。心からお悔やみを申し上げます。
深沢:ありがとうございます。家内は、本当に話が好きでした。私にもいろいろと話をし ていました。その日にあったことや、食べ物のこと、他愛もない話ばかりですが、 いつも楽しそうでした。しかし、振り返ってみると、私はあまりしっかり聴いてい ませんでした。それを今は後悔しています。もっとちゃんと話を聞いておけばよか ったと。そのせいで、この店のことを思い出すのにもずいぶん時間がかかってしま いました。
美加:深沢さんも言ってました。
深沢:え?
美加:うちの主人は、私が何を言っても、「うん、うん」って答えるけど、聴いてないっ て。
深沢:はは……。やっぱり気付いていたんだな。悪いことをした。
美加:でも、そんな時間がいいんだ、とも言ってました。
深沢:そんな時間がいい?
美加:えぇ。主人が新聞読んでたり、コーヒーを飲んでいるところに、自分があれこれ話 をしている時間が私はどうしようもなく大好きだって。
深沢:そんなこと。
美加:本当です。生意気なようですが、幸せな時間というのは、特別な時間とは限らない と思います。日常のひとこまを深沢さんは、とても大切に、そして、愛おしく感じ ていたんです。
深沢:確かにそうかもしれませんね。私も、今思い出せる妻は、キッチンに立っている姿 や、楽しそうに話している姿や、ソファーでうたた寝をしている姿、どれも日常に 溢れていたものばかりです。……そんな妻を思い出す度に……涙が出てきます。
美加:どうぞ、あんみつを食べてください。あんみつを食べるとき、深沢さんは、いつも 笑顔でしたから。
深沢:……はい。
ナレ:午後二時、喫茶浜木綿の風には、静かな時間が流れていた。河原崎美加役、○○○ ○、深沢志郎役、○○○○、ナレーション、○○○○、脚本、澤根孝浩、製作、○ ○○○でお送りしました。
END
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