女客
謹 (きん)
お民 (おたみ)
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お民 謹さん、お手紙。
謹 えぇ。(受け取る)ご苦労様です。
お民 いえ。
謹 やけに静かだね。
お民 えぇ。
謹 お坊は?
お民 えぇ、もう寝ました。
謹 そう。お袋も?
お民 行火で。
謹 あぁ。なに、甘えているのでしょう。元気な人ですからね、宵のうちからうたた寝をすることもありません。鉄さんも居ませんか?
お民 えぇ、買い物に。おみおつけの実を仕入れるとか。
謹 そう、じゃあ階下は寂しいね。どうぞ、お話しなさい。
お民 …では。
お民 …どうしたんです?
謹 いや。…貴方が居るのに、そこを閉めて置くのは気になります。
お民 あら。でもそれでは風邪も引きましょう。
謹 えぇ、全く。この通り、炭がなけりゃあ背筋が凍っていけません。
お民 可笑しな人ね。お礼に、炭を継いであげましょう。
謹 どうぞ願います。
お民 でも、東京は炭も高いんですってね。
謹 えぇ。何、ケチなことを言いなさんな。お袋なんかもう押入れに入って、葛籠に蚊帳があるかって大騒ぎだ。
お民 そりゃあ騒ぎにもなりましょうよ。またいつかのように、夏中蚊帳がなくっては、それこそお家は騒動ですよ。
謹 騒動どころじゃない、没落だ。いや、弱りましたよ、昨年は。何しろ家の焼けた年でしょう。あの焼け跡と云うものは、どういうわけだか恐ろしく蚊が多い。前もね、本郷の、春木町の裏長屋を借りて、仲間と自炊をしたことがありましたが、その時も前年火事があったと云って、大変な蚊でしたよ。まぁそれは何、若い者同志だから、夜っぴて表を歩いてたって、それで事は済みましたが。うちじゃ年寄りを抱えていましょう。
お民 えぇ。
謹 …それでもね、毒虫の、ぶんぶん矢を射るような激しい中に、わきで、疲れてすやすやと、私の居るのが嬉しそうに、快さそうに眠られる時は、私も堪らなくなって泣きましたよ。…そんな事より、恐るべきは兵糧の方でしたがね。
お民 ほんとに、どんなに辛かったでしょう、謹さん、貴方。
謹 何、私よりお袋ですよ。
お民 伯母さんにも聞きました。…伯母さん、自分の身が枷になって、貴方が肩が抜けないし、どう工面の成ろうわけもない、世間体さえ構わないなら、身体一つないものにして、貴方を自由にしてあげたい、しょっちゅうそう思っていらしたってね。…お互いに今聞いて、身震いが出るじゃありませんか。
謹 …私は私でね、食い物の足りぬお袋を、世間でも黙って見ているのは、こんな倅が付いているからだろうって。頼る処も、何もなければ、まさか見殺しにはしないだろう。民さんも知っていましょう、城の堀で、大層身投げがあったことを。
お民 …えぇ。
謹 九人目になるところでした。貴方の内へ遊びに行くと、いつも帰りが遅くなる。日が暮れちゃ、あの堀端を通ったんですがね。石垣が蒼く光って、真っ黒な水の上から、むらむらと、白い煙が這いかかってくるようじゃありませんか。…引き込まれては大変だと早足に歩き出すと、何だか後ろから追いかけるようで、一心に逃げ出しました。振り返ると、もう、それは凄いような月で。…自分の影法師を、死神と間違えたのでしょう。…可笑しな話です。
お民 …心細いじゃありませんか。
謹 気が変になっていたのでしょう。それがね、気味の悪い、死神の誘うような、嫌な堀端を、何故かまた、わざともに、歩いてみたくてならんのですよ。未だ死なないでいるって事をね。えぇ。食い物がありませんでしたから。…上り框へ腰掛けて、「おっかさん、お米は?」って訊くんです。するとお袋、「晩まであるよ」って。…明日のがないと言われるより、どんなに辛かったか。
お民 大抵じゃなかったのね。…お湯はあるかしら。
謹 あぁ、すっかり忘れていた。おかげさまで火もよく起こったのに。
お民 えぇ。
謹 それでもね、お民さん、貴方が来てから、何となく勝手が違って、何だか内じゃないようなんですよ。
お民 あら。そんな事を仰るのね。国許から上京しても、お坊とまた二人どこへ行けと言うのでしょう。
謹 (笑う)いや、飛んだことを。内らしくではない、つまり、下宿屋らしくないと言ったんです。
お民 …ですから、早く貰いなさいまし。悪いことは言いません、どんなに気が付いても、女中じゃ、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、今じゃ蚊帳より、お嫁が欲しいに違いありません。
謹 …いえ、よします。
お民 …何故です、謹さん。
謹 何故というと議論になります、ただね、私は欲しくないんです。何、年寄りのためにも、他人の交じらない方が、気楽でいいかも知れません。…それにお民さん、貴方がこうやって遊びに来てくれたって、知らない女が居ようより、お袋と私ばかりの方がね、水入らずで、気が置けなくっていいじゃありませんか。
お民 でもね、謹さん、私がこうしていたいために、一生貴方、奥さんを持たないでいられますか? それも五年、十年とこうしていたいたって、私もここに居られます身体じゃなし、手紙なんぞには、夫の親類がああのこうのと面倒だから、それにつけても早々帰れじゃないですか。…どうせ帰れば近所近辺、寄って集って、碌な思いもしないに決まっているけれど、それだっていつまでも、御厄介になるわけにもいきませんもの。
謹 いつまでも居て下さいよ。もう私は、女房なんぞを持とうより、貴方に遊んでいて貰う方が、どんなにいいか知れやしない。
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