うとう(3人ver)
うとう
女1
女2
女3
1
女1 暑い暑い暑いひどく暑い。まとわりつく熱気から逃れることもできず、だらりだらりと続く坂道を、自転車の後ろに娘を乗せ、だらりだらりと押しのぼる。娘が「落ちた落ちた」とはしゃぐので、振り返ると一羽の名もしれぬ鳥が地面に落ちている。見ればその鳥はまだかろうじて息をしている。このひどい暑さに衰弱しているのだろう。買ったばかりの冷たい飲み物を今この鳥に与えれば、もしや助かるのかもしれないと頭をかすめるが、私の足は止まる気がない。そうだやっぱり電動自転車を買おう。さっそうとこの坂を駆け上り、今にも死にそうなあの鳥に水を与えてやることも、さほどなんとも思わずできる。しかしそれより前に買わなければならないものが降ってわいてくる。エアコンの調子が悪い、少なくとも来年には動かなくなりそうだ。スマホも充電が怪しい、近く新しくしないといけなくなるだろう。家電キッチン用具にインテリア。税金・保険・家賃に光熱費。暑い暑い暑い。なにせ暑いのだから。
女2 私の名前の意味はなに?
女1 娘の急な「なに?」に振り向いた瞬間、さきほどの鳥が目に飛び込んでくる。いまその瞬間、鳥は生物としての役目を終えたことを、その目がそれを教えた。私は母親が命を終えたその瞬間のことを思い出す。
女3 誰?
女1 体中を機械に繋がれた彼女はベッドに横たわっている。肌は土気色になっていて体を動かすこともできないのだろうが、目は私をはっきりと捉えて私に「誰?」と聞いている。
女3 誰?
女1 私は…。
女1 彼女は私の名前を聞いて、ぐるり目玉を動かす。なにやら考えているようだった。私は重い口をやっと動かせる。
女2 私の名前は…。
女1 しかし私が言い終わる前に彼女の目は淀み、動かなくなった。ああ死んでしまった。直感的に私はそう思った。
女2 お母さん。
女1 娘が不安そうな顔で私を見つめている。あの時私はどんな顔をしていたんだろうか。今、私はどんな顔をしているのだろう。私の最初の記憶は父親の困った笑顔だ。今でもはっきりと覚えている。私が聞いた。自分の名前の由来を。その答えに困った顔。
女2 私の名前の由来はなに?
女1 父にそう聞くと、「おまえの名前は、お母さんがつけてくれたんだよ。」と悲しそうな顔で答えた。
女2 お母さんはどこにいるの。
女1 お前のお母さんは、自分の本当の名前を探しに行ったんだよ。
女3 私の名前は捨てられてしまった。私は拾われたが私の名前は永遠に捨てられたまま。今もどこかで私の名前が待っている。
女1 父も私が高校を卒業する前に死んでしまい、私は一人きりになった。後片づけをするなかで、戸籍謄本を取る必要があり、初めて自分の母親の名前を知った。それ以上それについて知ることはなかったし、しようともしなかった。しかし結婚して妊娠し、私は初めて名前をつけるということについて考えることになった。興信所の力を借りて、簡単に彼女の居場所を知ることができた。生きている。
女1 この街一番の明るい商店街を抜けていくと、急激に町並みに影がさしたように暗く古びたビルが立ち並ぶ。数年前まで走っていた路面電車も車の邪魔だという理由で廃止され、ドブ川を挟んで一つ橋を渡るとやたら駐車場が目立ってくる。彼女が住んでいるという家は思いのほか大きな日本家屋で驚いてしまう。しかし門構えの割に手入れがされている様子もなく、門も開きっぱなしになっている。そこから覗く庭は草が生えるがままになっており、本当に誰かが住んでいるのだろうかと思う。声をかけたが返事がなく、屋敷の玄関まで入っていくと、ふと縁側に太陽の光を浴びながら、鳥が遊ぶのを眺める女性が座っていた。
女2 あの、私、名前を探しているんです。名前の意味を。
女3 あなたの名前は。
女1 自分の名前を答えた。私の娘と同じ名前ね。そう声をかけられた。
女3 私の娘と同じ名前ね。
女2 あなたの娘さんの名前の意味はなんですか。
女3 なぜ知りたいの。
女2 なぜ。
女3 名前を失くしたの。
女2 名前をなくした。
女3 どこかで私の名前が待っているの。
女1 彼女はそれからなぜ自分が名前をなくしたのか、なぜ名前を探さなければならないのかを私に語って聞かせた。そして父がなくなる前に私に教えてくれた母の話を思い出していた。
女3 私の本当の名前を持った、もうひとりの私を私が殺したの。
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