夕まぐれ
夕まぐれ
作:麻井 美希

男   高校に入学して2週間。校舎の屋上で、彼女に出会った。だだっ広い空間にぽつんと置かれた木のベンチ。彼女はそこに座っていた。
女   あれ?ここ、立ち入り禁止だよ?
男   自分だって立ち入り禁止の場所にいるくせに、何を言っているんだって思った。でも、何となく、聞いちゃいけない気がした。
女   まぁ、のんびりしていきなよ。ここ、誰も来ないから。
男   そりゃそうだろうな。本当なら鍵がかかっているはずの場所だ。でも、その日はたまたま鍵が開いていた。先生が閉め忘れたんだろうか。
女   そもそも、ここに用があるひとなんて、いないもん。
男   じゃあ、何で君はここにいるんだ、と喉から出そうになった言葉は、かろうじて僕の中にとどまった。
女   風が気持ちいいねぇ。
男   長い髪が風に揺れる。僕は扉の前に立ち尽くしたまま、彼女の背中を見ていた。彼女は振り返らない。僕も彼女の隣には行かない。でも、この距離が、僕には心地よかった。
女   ここから見る夕陽が好きなんだ。太陽が闇に呑まれる前に濃くなるオレンジ色。あの色が大好き。
男   それなら、放課後にまた来よう。それから、夕陽を一緒に見て家に帰ることが多くなった。彼女の「好き」に、僕の「好き」が重なる。
女   じゃあね。また明日。
男   また明日。その言葉だけが、僕が学校に行く理由だった。勉強は嫌いじゃなかったから、授業はちゃんと受けた。でも、休み時間になると、息苦しくて仕方が無い。机に突っ伏し、ただ時間が過ぎるのを待つ。でも、嫌でも耳に入ってくる賑やかな笑い声に耐えられなくなる時がある。そんなときは決まって屋上に行く。不思議なことに、鍵が閉まっていることは一度だってなかった。そして、決まってベンチには彼女が座っていた。
女   そろそろ来る気がしたんだ。
男   彼女は、僕がここに来る理由を知っているんだろうか。
女   ここに用があるのは、私と君くらいだもんね。
男   そうかもしれない。どうしてみんな上手くやれるのだろう。いつの間にか友達をつくって、いつの間にか学校に溶け込んでいる。僕だけが一人、あの喧噪の中に、入れない。彼女も同じなのだろうか。

・・・

女   今日は暑いね。ここに日陰があれば言うことなしなのに。
男   制服は夏服に替わった。相変わらず、彼女はベンチに座って、僕は少し離れた場所に立つ。ぽつり、ぽつり、独り言のような会話を交わす。僕は彼女の背中しか知らない。顔も、名前も。知ってはいけない。この距離が僕たち自身を守っているのだから。でも、その一方で、彼女にもっと近づきたいという想いは膨らむばかりだった。
女   背、伸びたんじゃない?
男   僕の姿は見えないはずなのに、彼女はそんなことを言う。彼女は僕を知っているのだろうか。屋上にいる時以外の僕を。
女   もう帰らなきゃ。用事があるんでしょ?
男   日が長くなり、彼女と見る景色も少しずつ変わっていく。僕は理由をつけて早く帰ることが多くなった。これ以上彼女のそばに居ると、もっと彼女のことを知りたくなってしまう。彼女の前に立ちたいと思ってしまう。それは、みっともない僕の姿を彼女にさらし、あの居心地の良い空間を壊すことになるだろう。家の窓から見える夕陽は、きっと彼女もどこかで見ている。同じ景色を見ている。それだけで、いいんだ。
女   君は、いいひとだね。
男   いいひとなんかじゃない。言い訳を並べて、自分が傷つくことを恐れているだけの臆病者だ。
女   君がそこに居てくれるだけで、なんだかほっとするんだ。
男   これ以上彼女に近づくな。本当の僕を知られるのが怖い。この距離が壊れるのが怖い。
女   君と居る時間が、もっと長く続けば良いのに。
男   嫌われたくない、彼女にだけは。
女   ねぇ、そっちに行っていい?君の顔が見たい。
男   もう駄目だ。その日以来、僕は屋上に行けなくなった。彼女のことを頭から追い出そうと、勉強に打ち込み、部活にも入った。そこで、話の合う友人ができ、休み時間に感じる息苦しさは少しずつなくなっていった。それでも時々、屋上へつながる扉を開けようとした。でも、鍵は開いていなかった。あの日以来、二度と開くことはなかった。

・・・

男   高校を卒業する間際、僕は隣のクラスの女の子に告白され、付き合うようになった。大学卒業後に結婚。あれから長い年月が過ぎた。何故僕を好きになったのかという質問を最後まではぐらかしたまま、妻は1ヶ月前に逝った。通っていた高校は閉校になり、校舎は取り壊されるという。壊される前に、もう一度あの場所に行きたい。気がつけば僕は校舎に忍び込んでいた。犯罪だぞ。誰かに見られたらどうするんだ。頭の中に響く警告を無視し、僕の身体は前に進む。階段を上がり、屋上の扉の前に立つと、あの頃の自分に戻ったようだった。ドアノブに手をかけ、時計回りにひねる。きしむ音と共に、目の前に、あの時と同じ景色が広がる。そう、初めて屋上に上がったときに見た、彼女の背中が。
女   久しぶり。
男   …久しぶり。
女   やっぱり来てくれた。
男   ここが壊されるって聞いて…。
女   うん。
男   君は、ずっとここに居たの?
女   ううん。
男   そっか。
女   …ねぇ、最後のお願い、聞いてくれる?
男   なんだい?
女   ここに来て。私の隣に。君の顔が見たい。一緒に夕陽が見たい。
男   …あの頃とはずいぶん変わってしまった。
女   変わんない。変わんないよ。
男   君から逃げた奴の顔だ。
女   違うよ。私のそばにずっと居てくれた、優しい人の顔。
男   君の前に立つのが怖かった。嫌われるのが怖かった。格好悪い姿を見せたくなかった。…言い訳を並べて、君と向き合おうとしなかった。
女   それは私も一緒。私の方が卑怯だった。思わせ振りなことを言って、最初に君との距離を壊そうとしたのは、私。だから、君がここに来なくなった後、屋上でないところにいる君を探そうって思った。扉を開けようとしている君を見つけたとき、どんなに嬉しかったか。顔をあわせて、話をして、それで嫌われてしまったら諦めよう。でも、君は、私を好きだと言ってくれた。
男   君は…。
女   ほら、日が沈む。君の隣で、夕陽を見たい。
男   彼女に近づく。朽ちたベンチに腰を下ろす。夕陽に照らされたのは、世界で一番愛しい人の、出会った頃の顔。
女   太陽が闇に呑まれるほんの少し前。君との「また明日」があったから、私は生きられた。ありがとう。また、いつか。

1/2

面白いと思ったら、続きは全文ダウンロードで!
御利用機種 Windows Macintosh E-mail
E-mail送付希望の方は、アドレス御記入ください。

ホーム