鯨ヶ丘の詩
OP
萩谷の姿が浮かぶ。
萩谷 5000万年前、彼らは、陸から海へ住処を変えた。海から陸へとあがってきた哺乳類の進化の過程に逆行する出来事だった。彼らは、より多くのエサを得、より大きく、より早く、より安全に子孫をのこすために、より深く、遠くへ行くことにしたのだ。海へ適応するために、毛や足を失い、鼻や耳の位置を変え、水に浮かぶ大きな身体をつくり上げてきた。彼らは言葉をもたない。海では、言葉はなんの意味もなさないものだったから。だから、歌を覚えた。水は空気の千倍の密度があって、非常によく音を伝えるので、全身を震わせて発する歌は、より相手のもとへと、届くから。
鯨の歌声。街が鼓動を打ちはじめる。と、たくさんの鯨たちが現れ、宴がまき起こる。
宴のさなか、萩谷は綿引さんの家に宅配に来るが、インターホンを押しても反応はない。不審に思い、ドアをたたき、ドアノブを手にする。と、ドアが開き、綿引さんが玄関先に倒れているのを目撃する。
1
鯨ヶ丘の焼鳥屋「助さん」。夜。
萩谷がカウンターで酒を飲んでいて、助川は鳥肉に串を刺して仕込んでいる。
助川 それで、容態はどうなんだ。
萩谷 あと一歩遅れてたら危険だったみたいだけど、なんとか。
助川 そうか。で、いつまで。
萩谷 じきに退院できるそうだ。
助川 心臓だろ。大事にならなくてよかったな。
助川、焼けた焼き鳥を皿に乗せて出す。
ほら、サービス。
萩谷 これ……ハツか。
助川 焼き鳥の教えだ。「悪い部分の肉を食え」。
萩谷 俺が悪いわけじゃないよ。
助川 いいから食え食え。
萩谷 じゃ、水割り、もう一杯。
助川 あ、悪いな、なんか。
助川、水割りをつくる。
しかし、よく気づいたよな。
萩谷 なにが。
助川 異常感知っつうの。
萩谷 ああ、ヤマブキの鉢植えが湿ってなかったから。
助川 そんなんでわかったのか。
萩谷 綿引さんは毎日決まった時間に水をやるんだ。その時間帯に配達できるようにしてるからな。
助川 あそこは、息子さん、東京だっけ。
萩谷 そう、東京へ出たっきり帰ってこない。
助川 向こうでひきとってくれないのか。
萩谷 そんなに広い家じゃないってさ。綿引さんも、亡くなった旦那さんとの思い出が詰まった店を出たくないらしい。
助川 むずかしいな。
萩谷 店をたたんでも、そのまま住み続ける人が増えてる。
助川 そりゃ、土地も家もみんなもってるから。
萩谷 もちろんそれもある。営業しなくなっても、店として残したほうが、ただの住居より税金がやすくすむんだと。それに丘上の商店主はだいたい丘下に田んぼを持ってるから、そこを切り売りして、お迎えが来るまで細々暮らしていく気らしい。
助川 まあ、それも人生だよな。
萩谷 うん。けどそれで、若い人が新しく店を出しづらくなってるって。
助川 ますますむずかしいな。
萩谷 外に出ない人が多いから、助成金でつくった広場もガラガラだし。
助川 塙文房具のこと、知ってるか。
萩谷 え、いや。
助川 ここんとこシャッター閉まったままだぞ。
萩谷 そうか……ついに……。
助川 起き上がるのも大変だって言ってたからな。
萩谷 もう、なりゆきにまかせるしかないんだろうな。
萩谷、水割りをグッと飲み干す。
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