登場人物

少年


医師
強盗
  幕内 女 (声のみ)
  幕内 男 (声のみ 舞台上の「男」とは別人)  
 
一場  
心療内科の診察室
観葉植物の鉢。大きめのデスク。デスクの上には一輪挿しの花瓶、ファイルが挟まれたブックエンド、筆立て等。医療器具は一切置かれていない。小型のCDデッキが置かれている。
    薄暗い中、男がデスクを隔てて座っている。
舞台の中央に、枠と扉だけのドアが客席に対して垂直に置かれ、下手側に開いたままになっている。
    男にスポットが当たる。

男   「最初のきっかけは、母が、亡くなる数日前に言った言葉でした。

    舞台の奥にスポットが当たる。母が幽霊のように登場。

母   「あんたがお父さんを乗りこえたのは、お父さんが死んだあの日だったね…」

    スポットが消え、母の姿が見えなくなる。

男   「しかし、僕が母のその言葉の意味を聞く間もなく、母は逝ってしまいました。
それで、母の通夜や葬儀の間は忙しくて忘れていたんですが、落ち着いたころ、ある晩、家の玄関のドアを引いた時に、ふいに思ったんです」

男、立ちあがって舞台の中央に行き、下手側に開いていたドアを閉める。

男   「『自分はこの、ドアを引く感触を知っている』と」

    男、立ったまま客席に向かって話し始める。

男   「僕ら家族がアメリカに住んでいたころ、父は強盗に刺されて死にました。そのとき、母は出かけていて、家には僕だけしかいなかったんです。だけどその時のことを僕は全く覚えていない。父の死のような、強烈な出来事を覚えていないのはなぜなのだろうか。その時、高校生の頃に読んだ、フロイトの精神分析学の本を思い出してしまいました」

母、スポットの中から現れる。コップを持っている。

男   「フロイトはこんな例を挙げています。ある女性がある時から水が全く飲めなくなり、止むを得ずフルーツを口につけて手で絞って、果汁で渇きを癒すしかなくなった』と」

    母、コップを落とす。

男   「フロイトがその女性に催眠術をかけて女性が思いついたことを自由に話させていくとこんなことがわかった」

父、四つんばいになっている。
少年、父の口にコップを持っていく。

男   「その女性は、ある女がコップで犬に水を飲ませているのを見てしまった。その光景がたまらなくいやらしく見えた。だから彼女は、その光景を無意識の奥底に封印してしまった。彼女はその犬と女のことを、ずっと意識に上らせなかった。しかし、封印した記憶は無くなったわけではない。それが『水を飲む』ことよって意識に上ることを避けるために、彼女の無意識は『水を飲む』行為を封印してしまった」

スポットが消え、母、少年、父の姿が見えなくなる。

男   「人間は自分の心を守るために、自分にとって不利益な記憶、思い出したくない記憶を抹消しようとするが、抹消しきれずに、無意識の奥底に抑圧する。だけど抹消できず、抑圧された記憶はふとしたきっかけで意識に上ってくる。自分にとっては、それが、『ノブを引く感触』なのではないかと考えてしまったのです」

男、閉まったドアの下を見る。

男   「玄関のドアというものは、脱いである靴が邪魔にならずに開け閉めできるように、押すことによって開き、引くことによって閉まるようになっている」

    男、客席を見る。

男   「父は、『玄関の外』で死んだと聞いています。では私は何のためにドアを必死に引いていたのか? 父を家の中に入れないために? 必死に家の中に入ろうとしていた父を、強盗を家に入れないために、自分が助かりたいために、僕は父を閉め出したのか?」
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