良き仕事家エヌ氏の、大いなる失敗。
良き仕事家エヌ氏の、大いなる失敗。
作 松永 恭昭


エヌ






いたるところを包帯で覆われた男、エヌ。重症の様子ではあるが、その足取り口ぶりはいたって元気そうである。

エヌ 本日はお集まりの紳士淑女の皆様に一つ申し上げたいことがあるのです。仕事に感情はいらない。そう仕事をするということは歯車なのです。そんな比喩がピッタリとくるように仕事とは粛々と機械的に効率的に能率的に行うべきである。それがどんな仕事であろうが目標に向かい我々は一直線に時には迂回をして邁進すべきである。例えば皆様が今ごらんになっておる役者という仕事においても感情など微塵も必要ないのである。物語にそって感情豊かに表情豊かに演技をすることこそよき役者の仕事であると思われている方もいらっしゃるでしょう。が、残念ながらそうではない。役者が何を考えていても皆様方には何の関係もないのです。例えば私が悲しい顔をすればみなさまは悲しい気持ちを察していただける。喜びの表情を浮かべればみなさまの中に喜びの芽が育まれるのである。しかしながら今、私の頭のなかにはこの冒頭からの長ったらしいセリフを思い出すので精一杯であり、これから現れる女性との会話のタイミング、そして照明・音響のタイミングとなる重要なセリフの確認で精一杯なのです。本日はその中で、私、エヌが犯した大いなる失敗について語りたいと考えているのです。

女。

女 あなたのお仕事は?
エヌ 私の仕事?
女 そう、あなたのお仕事。
エヌ 私の仕事は、
女 あなたの仕事は、
エヌ 仕事は、
女 あなたの仕事は?
エヌ 少しあちらでお待ち下さいませんか。
女 あら、残念。

女、去る。

エヌ 私の仕事は当たり屋である。誇りと信念をもって私は当たり屋である。その私の大いなる失敗の物語である。


エヌ 私の大いなる失敗の始まりは彼女の「笑顔」からである。

女が顔を出す。

女 そうなの?(ニッコリ)
エヌ この笑顔だ。
女 あの時はごめんなさい。
エヌ いや、これは私の仕事ですからあなたが謝る筋はないのです。
女 お邪魔します。お加減はいかがですか?

女、入場。

女 本当にすいませんでした。
エヌ 彼女は入院先の私の部屋に現れたのです。
女 体は痛くありませんか。
エヌ 私は毅然とした態度でこう述べたのです。いえ、大丈夫です!
女 そう、よかった。
エヌ この笑顔。
女 そう、よかった。
エヌ 何たることか。私はここで嫌味ったらしく痛がり、苦しみ、呪い、彼女の罪悪感を煽り立てなければならない。つまり当たり屋という仕事の醍醐味はこの瞬間なのです。しかしこの笑顔。
女 そう、よかった。
エヌ 彼女のこの笑顔を苦痛に歪ませることなどできるのでしょうか。それが私の大いなる失敗。
女 そうなの?
エヌ 何たることか。彼女はその後も私の病室を幾度と無く訪れ、甲斐甲斐しくも私の世話を焼いたのです。
女 ご迷惑でした?
エヌ そんなこと、迷惑です。いえ、貴方がではなく私の仕事として。いえ、なんでもありません。とにかく、私に優しくしないでいただきたいのです。
女 何故ですか。
エヌ 仕事上不都合がございました。
1/5

面白いと思ったら、続きは全文ダウンロードで!
御利用機種 Windows Macintosh E-mail
E-mail送付希望の方は、アドレス御記入ください。

ホーム