穴男/穴女
穴男/穴女
作 松永 恭昭謀

登場人物
 牧師
 穴女
 男
 女
 
 円形舞台。中心に穴があり、出入りできる。
  
  1
牧師が座っている。

牧師 穴女、穴女よ。聞いているか。

穴の中央から、へんてこな着ぐるみを着た女(穴女)が現れる。

牧師 穴女よ。わたしの話を少し聞いてもらえないだろうか。
穴女 わたしが牧師様のお話を聞くのですか。
牧師 頼めるだろうか。
穴女 わたしでよければ。
牧師 わたしはここに座ってこの底なしの穴とそれを見に来る人々を見てきた。
穴女 幾年たちましたでしょう。
牧師 40年、晴れの日も雨の日も凪の日も時化(しけ)の日も。穴と人々を。
穴女 そんなに経ちますか。
牧師 わたしは間違っていたのではないだろうか。
穴女 牧師様が間違っていたというのですか。
牧師 このごろそう思う時がある。
穴女 なぜそう思うのですか。
牧師 わたしはここに座り、自らの命をこの穴に投げ出そうとする人々と話をしてきた。
穴女 それは大変すばらしいことでございましょう。
牧師 しかしもっとできたのではないかと思うのだ。
穴女 もっとですか。
牧師 確かに救えた命もあった。
穴女 みな、牧師様に感謝していたでしょう。
牧師 しかしわたしの力不足で人生を終えた人もいた。
穴女 牧師様はやれることをやったのです。つらいでしょうが牧師様が負い目を感じることはありません。
牧師 本当にそうだろうか。
穴女 牧師様はとてもよくやっておいでです。
牧師 わたしはそういう自分に酔っていたのではないだろうか。
穴女 酔っていた。
牧師 一生懸命自らの身を顧みず、命の為に身を削る自分に心地よさを感じていたのではないだろうか。それは彼らのためだったのだろうか。自らのためだったのではないだろうか。
穴女 そんなことを考えていたのですか。
牧師 もちろんいままで考えてはいなかった。自分なりではあるが一生懸命やっていた。だがわたしの人生も残りを数えるようになり、思い返すと、わたしがいままでやってきたことというのはそういうことではないかと思えるのだ。
穴女 たとえそうであったとしても、牧師様が行ったことは善い行いです。牧師様がどう思おうとです。他人からしたら善い行いであり、批判の対象とはなりえない行いです。
牧師 しかし、わたし一人では救える命には限りがある。わたしがご飯を食べている間にも、トイレに行っている間にも、寝ている間にも人生のつらさに耐え切れなくなった人々はここにやってきていたのかもしれない。
穴女 それはしかたがありません。牧師様は一人なのです。
牧師 なぜわたしは一人なのだろう。なぜわたしは仲間を作り組織を作りここに来る人々から穴を守る事をしなかったのか。そうすればもっと人を救えたのではなかったろうか。さらにいえば人生の業に苦しむ彼らを本当に救うのはここに来た彼らの話を聞くことではなく、彼らが持つ業の根本をなくさなければならなかったのではないだろうか。
穴女 確かにそれはそうかもしれません。しかしです。それを牧師様がしなければならなかったでしょうか。こうやって目の前を助ける行いをする人もかならず必要なのです。それが牧師様なのです。組織作りをする人もいるでしょう。苦しむ民衆を救う力を持った人もいるでしょう。しかしそれは牧師様ではなかったのでしょう。牧師様はただ目の前の苦しむ人を助けた。それは紛れもない事実であり、真実なのです。
牧師 穴女よ、ありがとう。
穴女 牧師様、少し休んではいかがでしょう?
牧師 いいのだろうか。
穴女 少し横になってください。人間には睡眠が必要です。寝ることによって健全な心を保つことができるのです。
牧師 ありがとう。確かにわたしは少し疲れているようだ。もう昔のように若くはない。睡眠不足に体が耐えられず、心が悲鳴を上げているのかもしれない。
穴女 お休みください。ゆっくりお休みください。夢が牧師様の人生の疲れを癒してくれることでしょう。人間が生まれて初めて見る夢はどんな夢なのでしょうね。わたしはね、きっと海の記憶だと思うんです。海の中でゆったりと泳ぐクラゲや、遊びまわるイルカのようになにも考えず波にゆられてみてはいかがでしょう。
牧師 ああ、なんと素敵な夢なんだろう。昔母に連れられて行った海を思い出したよ。
穴女 そうでしょう。お休みなさい牧師様。牧師様がお休みの間はわたしがここを見ていましょう。わたしはただの穴ではありますが、ここにいることはできるのです。もし牧師様が必要ならば起こすことだってできる。牧師様がじっと見ている必要はないのです。これからはわたしの力を使ってください。ほんの些細なただ存在することだけしかできないわたしではありますが、牧師様とこうやって話をし、危険の到来を告げる力はもっているのです。ぜひそのわたしの力を使ってください。
牧師 ありがとう。その言葉に甘えることとしよう。少し夢を見ることにしよう。そしてこれからのことを考えなくてはいけない。明日から先の穴を見守るということについて考えなくてはいけない。それはきっと大変疲れることだろう。その前に少し休養をする必要があるのだろう。わたしは少し疲れている。
穴女 お休みくださいお休みください。
1/9

面白いと思ったら、続きは全文ダウンロードで!
御利用機種 Windows Macintosh E-mail
E-mail送付希望の方は、アドレス御記入ください。

ホーム