曽根崎心中
○第一場生玉の場

拍子木の音
西国三十三か所生玉神社の社、時は夏、夕暮れ
生玉神社境内、上手に茶屋の縁台、下手に鳥居
大阪三十三ケ所回りをした田舎商人勘兵衛とお初が上手より入る。
茶屋の縁台に腰を下ろす。

勘兵衛「やれやれ、やっとお札参りも終わったか。同じ大阪でも一日で三十三か所は辛いの。酒でも飲んでひとやすみしよう。(奥に向かって)駕籠の衆も遠慮なくやってくれ。」
駕籠の衆の声「へい」

下手より編み笠をかぶった徳兵衛が入る。
初、はっと気が付く。

初「ありゃ、徳様ではないかいの。」

徳兵衛の姿を見かけた初は客に声をかける。

初「勘兵衛さま、ここは生玉の社じゃ、せっかく来たからにはちょっとお参りして来たい。しばらく待っていて下(くだ)んせ。」
勘兵衛「仏様の次は神様か。信心深い女子じゃ。」
初「女郎はめったに外には出られぬ。こんな折にお祈りして、罪深い身を清めたいのじゃ。」
勘兵衛「いてこいいてこい。どれ、わしは裏手に来ておるらしい物真似でも見に行ってみようかい。」

勘兵衛は酒を置いて上手にはける。
初は勘兵衛がはけるのを見て、下手鳥居のほうへ向かう。

初「徳様、徳様」

下手鳥居前、初の姿を認めた徳兵衛

徳兵衛「おお、そうじゃ、大事な用を忘れていたわ。わしはあとから帰る。長蔵、お前は寺町の久本寺様、長久寺様、それから上町から屋敷がたをまわれ。醤油届けて銭もろうたら、店へ戻れ。わしもおっつけ帰るというてくれ。」
丁稚長蔵の声「へい」
徳兵衛「さあ、早う行け。途中道頓堀なんぞへ寄り道するな。まっすぐ戻るんじゃ。」
丁稚長蔵の声「へぇい」

徳兵衛は初のほうへ駆け寄り編み笠を脱ごうとしながら茶屋の縁台に座る。

徳兵衛「これはお初ではないか?どうしたことじゃ。」

初、徳兵衛が編み笠を脱ごうとするのをとどめて。

初「阿波のお客とお札所を回ってそこの茶屋で休んでいるところじゃ。駕籠の衆は徳様の顔を知っている。やっぱり笠は被っていなさんせ。したが、徳様、わずか見ぬまに随分やつれたの。」
徳兵衛「お前もやつれた。この指先のつめたいこと。」
初「徳様の顔を見ぬせいじゃ。なんで天満屋に来てくれぬ。この頃は梨のつぶてで、何の音沙汰もない。気がかりなれど、内々の事情も知らねば、便りもできぬ。座頭の大市が友達衆にきくと、田舎へ行きなさったと言うけれど、とんと本当とは思えぬ。お初などどうなろうと聞きとうもないかいの。徳様はそれでも良いが、わしは病になる。嘘と思うなら、これ、この胸のつかえを見さんせ。」

初は徳兵衛の手をつかみ懐に入れ涙ぐむ。

徳兵衛「お初、泣くな。おれを恨むな。この何日かの俺の浮き苦労は、盆と正月一度にするともこうまで大変なことはあるまい。言うに言われぬ。ひどいものじゃ。」
初「どんな苦労じゃ。うちあけて下んせ。」

初は徳兵衛の膝に持たれさむざむと涙する。

徳兵衛「隠すのではないけれど、言うても埒のあかぬこと。聞くな。お初。」
初「いや、聞きたい。どうしても聞きたい。話して下んせ。」

初は徳兵衛を見上げ、じっと見据える。

徳兵衛「では言おう。平野屋の旦那殿は主人ではあるが、実の叔父と甥の間柄なので大事にされている。また自分も奉公にはこれっぽちも油断せず、商い物も一文半銭間違えたことはない。この正直を見て取って、平野屋の旦那殿が、お内儀の姪御をおれに押し付けて夫婦になれというたのじゃ。」
初「で、徳様。承知なさったのか。」
徳兵衛「お前がいるのに、なんでほかの女に心を移すものか。見事に断ってやったわい。」
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