夜鷹の眼に映る (20分)
落語の登場人物と申しますと「八っつぁん熊さん御隠居さん、人の良いのが勘兵衛さん、
馬鹿で与太郎」なんて事を申します。
ま、歳やら仕事やら嫁のいるいないは話によって多少変わっては来るところもあります
が、こういうもんだというのが名前で分かるんですね。名前ってのは、便利なもんです
ね。
おっと、しまった。名乗りそびれました。私は…、ま、いいですかね。本題に行きましょ
うか。今日はちょっとばかり物語をね、お聞かせ致しましょう。

山を幾つも越えた僻遠の地に、石が立てられている。近くに建物が残っているが、人間の
姿はない。かつて此処には村があった。旅人の通り道にもならず、外部の者は一切知らぬ
小さな村だった。
冬になれば雪は深々と積もり、家屋から表へ出るのも困難になる。秋には収穫を終え、蓄
えを作り、暖を取りながら春の訪れを待ち焦がれて生きていく。澄んだ川には生き物が棲
み、それを食料とする生き物が集まった。

キョキョキョキョキョキョキョキョ。
異国から飛来した夏鳥の声が聞こえる。夜鷹だろうか。

今から始まるのは、小さな村での静かな営みと企みが交わって生まれた物語。

その夜、男は酒を飲み過ぎた。
尿意を催した男は、用を足そうと千鳥足で川へと近付く。すると一枚の葉が流れていくの
が目に入った。緩やかな流れに乗って何処まで行くのか。水面に顔を出した石に引っ掛か
りはしないか、途中で沈みはしないか。興味が湧いて、葉を追い掛けて歩き始めた。
どれだけの時間、歩いただろうか。随分と離れた場所まで来た事に気付いて、男は後ろを
振り返った。明かりは見えない。途中、けもの道を通ったりもした。思っているよりも相
当遠くまで来てしまったのだろう。それでも川を下って来たのだから、上流を目指せば村
には帰れる。
そう思っている間に流れていったらしく、川の流れに目を戻しても葉を見付ける事は出来
なかった。代わりに、水面に映る人影が目に入った。どうやら女らしい。何故こんな時間
こんな場所に。
そう思ったのは一瞬で、男は即座に自分の過ちに思い至った。下ろした長い髪に、朱色の
着物。同じ村の者であれば誰もが知っている禁忌の存在に、自分は出会ってしまった。

隣村との境に妖怪が出るという話は有名だった。
まず初めに、都に一人の女が現れた。男達を狂わせ、骨抜きにし、やがては命を奪う。そ
れが、飛縁魔。正体は九尾の狐が女に化けた妖怪であると囁かれ、丙午年の女は男を早死
にさせるという迷信から飛縁魔と呼ばれる様になった。

男の酔いは一気に冷めた。
震えの止まらない理由は寒さのせいか、怯えのせいか、両方なのかもしれない。いずれに
せよ、足は根を張った樹木の如く、もはや走る為に使うのは無理な話だった。それどころ
か、頭のてっぺんから爪の先まで体の全てが自分のものではなくなった様な感覚。
飛縁魔を噂で耳にした時には、いい女なら一度は会ってみたいと思えたが、実際こうなる
と自分の愚かさを痛感した。やがて雲が月を隠し、辺りは闇に包まれた。見えない。た
だ、近付いてくる足音が聞こえる。男の呼吸が乱れる。その僅かな時間は、心臓を破裂さ
せるのに充分なだけの長さがあった。
いっそ死ねば楽になれると男が考えている間に雲は通り過ぎて、正面に近付いた飛縁魔と
目が合った。

「綺麗だ…」

自分の口がその言葉を放ったと自覚したのは、暫くしてからだった。まだ体は思い通りに
動かせない。
余りにも美しい顔をした飛縁魔に、男は陶酔しながら失神した。

目覚めた男は村に戻り、飛縁魔が如何に美しかったか、あれだけの美人を前に一目惚れし
ない者はいないと声高に語った。男達は興味を持ち、女達は蔑視を向けた。
村人たちはひとまず命を取られずに戻って何よりとみな安心していたものの、男は飛縁魔
にもう一度会いたいと夜な夜な村を抜け出しては歩き回る様になる。ろくに寝もせず食事
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