Yer Blues
〈登場人物〉
男
女
音楽。(チャイコフスキー「白鳥の湖 情景」)
男と女が立っている。
舞台上上手にテーブルと二脚のイス。
男 私、九十になる母親がいるんですけどね。
女 ‥‥‥。
男 それが、変というか、とても興味深い人物でして。
女 はあ。
男 先日、彼女が知り合いに電話をしてまして、「うちの息子はまだ独身なんだけど、それは、若い頃にとても美人の女の人に失恋して、それがショックで結婚できない」って言うんですよ。
女 はあ。
男 実はね、十年ぐらい前から耳が遠くなってて、日常の会話でも「ハァ?ハァ?」って何度も聞き返すもんだから、とてもうっとうしいんですよ。だから、電話なんかでもほとんど会話が成立しなくって、「何言ってるのかわからん」って、すぐにガチャンと切っちゃうんですよ。で、今度老人ホームで独り暮らしをすることになったもんだから、困ったなあって思ってたんですよ。
女 それは困りますよね。
男 ええ、そうなんでよ。ほんとに困るんです。それでね、集音器を‥‥あの、集音器って知ってます?
女 え? ‥‥音を集めるんですか?
男 まあそうなんですけど、まあ補聴器みたいなもんです。なんか厚生労働省に認可を受けてないと補聴器と名乗れないんだとか。でね、その集音器で、「みみ太郎」という評判の製品がありましてね。なんか、ああいう製品って、すごいベタなネーミングですよね、たいてい。他にも「遠耳君」とかってのもあるんですよ。どう思います?
女 え? どう思うって言われても‥‥。
男 ハハハ‥‥笑っちゃいますよね。だいたい医療業界ってそういうセンスなんだよなあ、昔から。ほら、頭痛薬とかすごいじゃないですか。「ハッキリ」とか「スッキリ」とか。あと「ノーシン」てのもそうなんですよ。知ってました?
女 え?
男 昔はね、明治から大正時代くらいかな? 頭痛のことを「脳病」とか「脳神経病」とか言ってたんですよ。だから脳神経病に効くから「ノーシン」って。めちゃくちゃ安直な名前ですよね。アハハハハ。
女 ‥‥‥。
男 それにしても脳病ってすごい名前だなあ。なんか脳腫瘍かくも膜下出血みたいだ。ああ、それから神経衰弱。ノイローゼとか何か気分がすぐれないとすぐに神経衰弱だったらしいですよ。夏目漱石なんかがよく使ってます。‥‥あ、そう言えば、最近はノイローゼって言わないんですよね?
女 え? ‥‥ああ、まあ、そうですね。
男 そうそう。素人の使う精神病の名前って、たいてい間違って使ってるんだって聞いたことがありますよ。ほら、ええっと、そうそう、ヒステリーとかコンプレックスとかパニックとか。それから、えーっと、そうそうストレスなんかも間違ってるんですよね?
女 そうですねぇ‥‥確かに医学的に正確じゃない使われ方も多いですね。
男 やっぱりそうなんですか。そうなんですよねぇ。素人は知ったかぶりをしたがるもんだから、それで‥‥あれ? 何の話でしたっけ?
女 だから‥‥その‥‥みみ太郎?
男 ああ、そうそう、みみ太郎。みみ太郎。‥‥え? で、みみ太郎がどうかしましたっけ?
女 だから‥‥お母さんの耳が遠いんでしょ?
男 ああ、そうそう、そうだった。へぇ、よく覚えてますね。さすがですねぇ。
女 ‥‥それはいいんですけど、座りません?
男 ああ、そうですね。‥‥すみません。気がききませんで。
女 いや、いいんですけど。
男 それじゃ、座りましょう。
女 はい。
二人、イスに座る。
男 ‥‥さてと。‥‥で、母親の耳が遠いとどうなんですか?
女 え? ‥‥それは、あなたがおっしゃったんでしょう?
男 いや、そうなんですが‥‥何を言いたかったのか、わかんなくなっちゃって‥‥。お恥ずかしい限りです。すみません。
女 えー。‥‥そうですねぇ‥‥確か、電話の話じゃなかったですか?
男 ピンポーン! そうそうそれですよ! 電話の話!
女 はあ。
男 思い出しました! もう大丈夫です。そうそう、福祉用の電話っていうのがあるんです。ご存知ですか?
女 はあ‥‥まあ、一応。
男 それがね、いろいろ調べてみたんですが、ジャンボプラスっていうのがあるんです。これは知らないでしょう?
女 はい。知りません。
男 そうでしょうね。このジャンボプラスはねぇ、「これ以上大きな音の電話はありません」っていうのが売りなんですよ。なにせ六十デシベルも音をアップできるんです。六十デシベルですよ。信じられますか?
女 はあ、そう言われても‥‥。
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