シャイロックの夢
みなさま、ようこそいらっしゃいました。
素晴らしい音楽をお楽しみいただいておりますでしょうか?
この世はひとときの夢と申します。出来ることなら、美しく、楽しくそして
また色っぽい夢を味わっていただけたらと思っております。
私ですか?あ、私のことが見えてらっしゃいますでしょうか。ああ、そうで
すか、それはありがたいことでございます。見えないと言う方、お気になさら
なくても結構でございます。
実を申しますと、私、この世のものではございません。
毎年ハロウインが近づいてまいりますと、この北野の界隈をふらふらと彷徨
い歩いているものでございます。
若作りをしておりますが、実はわたくし、この異人館とともに生まれたよう
なものでございます。
私が生まれた明治38年、大国ロシアに勝ったと日本中が浮かれていた頃、
この港を望む絶景の北野の地に洋館がポツポツと立ち始めました。両親はこの
近くで金物屋を営んでおりましたが、私が7つのとき、火事に見舞われまして
両親とものこの世を去ってしまいました。ただ一人残された身寄りのない私に
手を差し伸べてくださったのが、北野の教会のオルドリッジ牧師先生でありま
した。
私はどこにでもいるヤンチャな悪ガキであったのですが、あまりの出来事に
心を閉ざしておりました。また先生は異人さんでございました上に、大変にい
かつい姿をしていらっしゃったものですから、日本の悪ガキには赤鬼のように
見えておりまして、先生が近づくだけでおびえておったのでございますが、オ
ルドリッジ先生は実に優しく私を包み込んでくださり、またときには厳しいお
しかりを受け、そうしていくうちに徐々に心を開き、人としてこの世に場所を
得ることができるようになったのでございます。
協会の窓から見下ろす神戸の街は、年ごとに姿を変え、私の体が育つのにあ
わせ、どんどんと大きくなっていきました。
大人になり、この街で貿易の仕事を始め、一人前に生きていくことができる
ようになったのも、オルドリッジ先生をはじめとするこの街の方々、そしてイ
エス様のおかげでございました。
わたくしの語りが、なにやら芝居じみているとお感じかもしれませんが、実
はこれはオルドリッジ先生のせいでございまして、それと申しますのも、先生
はシェークスピアが大好きでありまして、私もその影響を受けましたのでござ
います。仕事の傍ら仲間を募り、この北野で毎年ハロウインのお祭りで、シェ
ークスピアのお芝居を上演しておりました。
何度か上演を重ねるほどに、私は芝居の魅力にとりつかれ、いずれは大きな
劇場の舞台に立ちたいと思うほどになりました。
しかし、美しい街で大切な人達と暮らす幸せな日々は、いつまでもつづいて
はくれませんでした。
時勢はしだいに風雲急を告げ、この六甲麻耶の山並みを時代の黒い雲が覆い
はじめました。オルドリッジ先生の母国、アメリカは我が国の敵となり、先生
を始め、お世話になった方々が、次々に帰国なさいました。
そして私も、敵国のスパイの疑いをかけられたわけでございます。
もちろん私はスパイなどではございません。もし私がスパイであったとして、
何をアメリカに知らせることができたでしょう。しかし警察の取り調べは過酷
を極め、幾度となく殴られ、心折れた私は、ただ、逃げることを選んだのでご
ざいます。
六甲を駆け抜け、有馬、三田から福知山線に乗り、舞鶴から異国に逃げるつ
もりでありましたが、残念ながら、まことに残念ながら、六甲の山中で猪に追
われて足を滑らせ、崖を転がり落ちてあっさりと死んでしまったわけでござい
ます。
崖を転がり落ちながら見た神戸の街の実に美しかったことだけを鮮明に覚え
ております。これも神の与えたもうた運命でございます。私は、すべてを受け
入れ、神の元に召される覚悟でございました。
とは申せ、とは申せ、私はこの世に未練ございました。
ここまで無粋な話で大変申し訳ございません。ここから、少々色っぽい話に
なります。この世はひとときの夢。この世の花は色と恋でございます。
私もどこかにいる私だけのジュリエットを求め生きておったわけでございま
す。どこがロミオやとおっしゃいますな。
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