オス!俺たち手芸部
11月2日。月曜日 朝。
オフィス街に近い地下鉄の改札から、地味な色合いのサラリーマンの集団が15分毎に吐き出されていく。
サラリーマンの集団は見事に統制されたマスゲームのように改札を抜け、顔を正面に向けて目的を持った足取りで歩を進めている。誰もが無言だ。その集団の中に青木正一も溶け込むようにして。混じっていた。
その日は入社5年目の青木正一にとって、転機となる予定だった。
コネではあったが、外資系の名の通った一流会社に就職。派手ではないがコツコツと実績を積み、ようやく自分が発案した企画を社内コンペにまで持ち込んだのだ。
外資系というだけあって、実力主義のこの会社は半年に一度、企画課の社内コンペを開く。そこでは例え平社員のアイディアであろうと、優れていれば採用される。言い返せばここで認められなければ一生平のままということになる。このシステムに振り落とされた先輩方が会社を去るのを横目で見ながら、青木自身も今まで何度と無く社内コンペには出してきた。しかし採用どころかコンペにすら出してもらえる機会は無かった。今までは。
青木は今回の企画には多少自信があった。経験も積み、傾向と対策も見えてきた。下調べも完璧を期したのだ。勿論、今の青木は企画の平社員に過ぎないので、通常の業務を行ってからの仕事になる。残業だけでは足らず休日でさえプレゼンの下調べ、現地視察に費やした。それはもうがむしゃらに。しかしこのプレゼンに成功すればチーフとなり、晴れて一企画を任されることになるのだ。
青木は何が何でもこのチャンスを掴み取らなければならなかった。というのも青木の年代の中で何の役職も付いてないのは彼だけであったからだ。努力を惜しむことはできない。まさに瀬戸際なのだ。
そして今日はその社内コンペ、プレゼンの当日。
「失敗はできない。」
そう思った途端、不安がプレッシャーの波となって胃がキリキリと痛み出した。顔をしかめ、思わず胃に手をやる。最近頻繁にこの痛みがやってくる。まずいなと感じつつもサラリーマン病と放置してきたが・・・
青木は朝の出勤に向かうサラリーマンの群れからそっと離れ、自分の会社のビルを見上げた。オフィス街にある前面ガラス張りのオフィスビルは新しくピカピカでバカでかかった。この就職難の中、拙いコネを頼りにやっとありついた就職先。入社当時はこのビルを希望に胸膨らませて眺めたものだった。
青木はビルのガラスに映る自分の青白い顔を、片手でしごいた。我ながら生気の無い顔に見える。夕べは不安からよく眠れず、食欲も無い。おまけに一人暮らしの余裕の無さを体現したようなヨレヨレスーツ。
「まずい。こんな格好じゃ通るプレゼンも通らない。」
青木が感じるストレスは原因はいくつかある。それの一つは直属の上司の存在だ。企画部長は本社から出向のイギリス人、いやその表現は甘すぎる。彼の上司はバリバリの英国紳士なのだ。
ラムジー氏は紳士らしく礼節を重んじ、身だしなみにもうるさい。曰く、自身をコントロールできるか否かは服装で見て取れる。とのこと。そして理由は分からないが青木はラムジー氏の覚えめでたくない。
青木はため息を吐くと、ちょっとでも見栄えを良くしようと、ガラスに映る自分を見て髪を直し始めた。と、突然背中を強く突かれ、同時に親しげな声が上がった。
鬼塚リナ。否、鬼塚・・・課長だ。
鬼塚「オス!オース!何やってんのー? 身だしなみチェック? あたしもやろうっと。」
青木「っ・・・てぇなっ!」
青木の抗議もどこ吹く風、鬼塚は広いガラス面にも関わらず、青木を押しのけさっきまで彼が居た場所で同じように髪を直し始めた。
青木と同い年の鬼塚は、彼とは対照的にブランドのスーツを嫌味なく着こなし、程よく流行を取り入れた服装をしている。控えめだが手入れの行き届いたネイルアートが指先で光っている。
青木「なんだよ!こんだけ広いんだからそっちでしろよ!」
鬼塚「いいじゃんケチ。」
ガラス越しに鬼塚の知的な顔立ちが笑い、青木に向けられる。
二人で話している間にも出勤して来る社員の流れは止まらない。これだけ大きな会社にもなると自分の関係部署以外の社員の名前はもちろん、顔すら分からないものだが、その中に鬼塚の部下が居たらしく挨拶してきた。
松戸「鬼塚課長、おはようございますー。」
鬼塚「オハヨウ。」
鬼塚は先ほどとは違うクールな声で応える。
青木はその声に自分の立場を思い出し、少々気まずくなった。
鬼塚「どしたん? 今日早いじゃん。企画はフレックスでしょー?」
青木「今日は・・・そのあれがありますから。」
鬼塚「やーだ、何で急に敬語? キモイー!」
鬼塚は目を剥いて見せた。
青木「や、そりゃあなたは課長でオレ、平ですから。敬語で当然です。」
鬼塚「もー、あたしたち幼馴染じゃーん? 二人の時はもっとフランクでいこうよ?」
青木「や、もう会社ですし。」
鬼塚は承服しかねるという表情で青木をじっと見つめたが、青木はその視線を避けた。青木にとってのストレスの種、二つ目はこの鬼塚リナだった。
先ほど鬼塚が漏らした通り、二人は幼馴染だった。小中高大と同じの上、なんと会社まで同じなのだ。明るく自信家な彼女はどこでも人気者の上、勉強も良くできた。青木よりもはるかに。
学力に差があるにも関わらず同じ学校に進学するので、もしかして自分に気があるのかもと思った時期もあったが、本人はどうもその気は無く、たまたまだと笑うだけ。堪らないのは青木の方だった。学生の時から何かと比較され続け、会社に入ってようやく解放かと思ったら、鬼塚は入社式でしれっと青木の横に立っていたのだ。悪夢の始まりだ。当然のように出世も青木より早い。唯一の救いは青木は企画、鬼塚は営業と部署が違うことだが、彼女の営業三課は青木の企画三課とペアの営業部なので微妙に上司に当たってしまうのだ。
そして当然、コンペのプレゼンの席にこいつは座っている。
鬼塚「・・・ま、いいや。それよりあれって社内コンペの事? 今日の午後一だっけ? 正ちゃん今回出るんだよね? 初めてじゃない?」
青木「うん・・・いや、はい。」
鬼塚「正ちゃんもっと頻繁にコンペ、出したらいいのに〜。」
青木「・・・出してましたよ。毎回ね。」
鬼塚「? 毎回?」
青木「コンペにまで残らなかっただけです。」
鬼塚「あ〜・・・そかそか。ナルホド。でも楽しみ〜。正ちゃん出るんだったらあたしも真剣になーろおっと。」
青木「んな? 今まで真剣に見てなかったわけ?」
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