【朗読劇】アイネ・クライネの日記
(ト書き)
 舞台中央、イスが置かれ、女性、そこに座っている
 膝には本が置かれ、それを手に持ち、ページを捲る

(女性)
 10月25日、雨。今日から日記を書き始めます。
 あなたがいなくなってから三日。最初はいつものように、また誰かの家に泊っているのだろうと思いました。しかし、あぁ、私は、あなたに愛想を尽かされたのだなと。そう感じるようになりました。当たり前です。同棲を始めてから一年。前進することもなく、後退することもなく。日常をただひたすらに引き伸ばした関係に、私もあなたもうんざりしていたのだから。むしろ、よく一年も繋がっていたと驚きます。いや、本当はもうとっくに繋がっていなくて、一人が二つ、ただ其処に存在していただけなのかもしれません。
 さて、日記を書き始めると言っても、私には特に書きたいことがありません。昨日も今日も明日もない、同じような毎日の繰り返しです。なので、明日からは一日一編、物語を紡いで行こうと思います。そうすることで、むしろそうしないと、私はあなたのことを忘れられそうにありません。もし、私がいなくなったあとで、無論、あなたがこの家に戻ってくる事など絶対にありませんが、もし何かの手違いで、この日記があなたの元へと辿り着いたときには、どうか、どうか。そっと、この日記を、燃やしてください。

(ト書き)
 女性、ページを捲る

(女性)
 10月26日 時計の話
 カチリ、コチリ、秒針が進む。振り子が揺れる。
 古い図書館に良く似た時計店の一室で、私と向かい合わせに祖父が座っている。
 部屋一面には、ありとあらゆる時計が置かれていた。水時計、砂時計、振り子時計、ランプ時計、原子時計、親子時計、ハト時計。そこかしこで、時間を刻む音が鳴り響く。
「ねぇ、おじいさん」
 相変わらず、無口で無愛想なおじいさんは、生死の確認がしづらい。
「正確な時刻が知りたくても、この部屋には嘘吐きが多過ぎるね」
 チクタク。チクタク、チクタク。
 大きな古時計だけが、百年の歴史を知っている。
 おじいさんが生まれた時に、私の曽祖父からプレゼントされた時計らしい。私は、一定のリズムで揺れる振り子と、ボーン、ボーンと響く音が好きだった。
「勝手に話すから、聞いてても聞いてなくてもいいよ」
 もう、寝息も聞こえない。
「私ね、六月には式を挙げる予定だから、おじいさんにも出席して欲しいな」
 ボーン、ボーン。真夜中にベルがなった。
「時計は汚いのに、音色は綺麗なんだね」
 止まった時計。動いた時計。私が産まれた日に買った時計。素敵な彼氏ができた日を刻んだ時計。私とおじいさんが、一緒に過ごした日を告げる時計。色んな時計。狂った時計。大きなのっぽの古時計。沢山の時計が、身勝手に私の頭の中で雑音を鳴らす。
「ねぇ、おじいさん」
 ボーン。と、古時計がおじいさんの代わりに返事をした。
「もし、私に子供が産まれたら、柱時計を買おうと思うの。おじいさんとお揃いの」
 懐かしい匂い。木漏れ日の匂い。おじいさんの匂い。
 ボーン。と、遥か遠くの空で、合図を聞いた。

(ト書き)
 女性、ページを捲る

(女性)
 10月27日 指輪の話
 水槽の濾過機が、強い音を立てる。
 彼女と食べるはずだったコーンポタージュは冷え切り、まるで僕達との関係を表しているように感じた。そして、水槽の中で鈍臭く泳ぐアロワナの物乞いが、間抜けな僕達に見えた。
 婚約指輪を渡してから数週間、今日はその答えをもらう為に、彼女の大好きなコーンポタージュを用意して待っていた。なのに、それなのに、玄関先で彼女を迎えた時、彼女の左手に、婚約指輪が付けられていない事に気付いた。今日は付けていないのかと訊ねると、彼女はバツが悪そうに、何処かへ落としてしまったと告げた。
 それだけならまだ良かった。しかし彼女は、事もあろうにそれを「まぁ、それくらい許してよ」と言った。だから僕は怒った。「そんな事で怒らないで」と、彼女はまた言った。僕が彼女の為に、僕と彼女の為に選んだ婚約指輪を、僕達の将来を決める今日という日を、彼女はそれくらいと、そんな事と言い退けた。
 無性に腹が立って、その場で彼女を追い返す。何度もドアを叩く音と彼女の声を無視して、僕はリビングに向かってテレビをつけた。
 世界の歩き方、生命の神秘性。違う。違う、違う、違う。僕達の関係を修繕する方法を、数十分前に戻れる方法を。それらを見つける為に、チャンネルを回す。回す、回す。回した。
 テレビから不要な情報が流れる度、大して美味しくもないコーンポタージュを啜る度、得体の知れない何かが込み上げてくる。そんな僕の気も知らないで、アロワナは「早く餌をよこせ」と、口を忙しなく動かす。意地汚さが泡となって吐き出されるのに苛立ち、これでも食ってろと、水槽の中にテレビのリモコンを投げ込む。
 驚いたアロワナが鈍く身体を動かす。瞬間、水槽の中に激しく土煙が舞った。透き通った水が徐々に浸食され、アロワナの口から、反射する婚約指輪が吐き出されるのを捉えた。
 僕は急いで水槽の中に手を突っ込み、濁った水中を掻き分けるように、婚約指輪を探す。探す、探す、探す。濾過機の先端で指を切り、爪の間に砂利が混じり込む。水槽の占有率をほとんど占めるアロワナを無理矢理押し退け、探す、探す、探す、探した。
 泥水の中、煌き、揺らめく婚約指輪を見つけた。しかし、押し退けられたアロワナが、反撃とばかりにそれを再び呑み込もうとする。呑まれてたまるか、彼女の指輪だ。失くしてたまるか、僕の執念だ。取り戻してやる。奪い返してやる。
 アロワナの口に左手を突っ込み、勢いよく手の平と甲を噛まれる。ズブズブと皮膚が千切れていく感覚と激痛に、涙と嗚咽を流しながら、そいつの臓物を思い切り刺激し、異物と共に婚約指輪を吐き出させる。返せ、返せ、返せ! 指輪を。未来を。彼女を!
 ゴボォ。と、嫌な音を立てて、アロワナが大きく口を開ける。すぐに手を引き抜くと、ブツ切れとなった皮膚と皮膚の隙間から、血がプツプツと滲み、茶色く濁った水中を、アセロラ色に染め始めた。
 開いた左手には、婚約指輪と、それを取り戻したという確かな重みが残る。
 僕は、僕と彼女の未来を、左手で力強く握り締めた。

(ト書き)
 女性、ページを捲る

(女性)
 10月28日 蜘蛛の話
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