井戸の底を泳ぐ。

 暗闇から、小さな声で話し声が聞こえる。

声1「なぜ、このような暗闇を這いずり回っているのですか」
声2「なぜなら、ここが私の生きる世界のすべてだからですよ」
声1「寂しくはないのですか」
声2「私は生まれた時からずっと、この暗闇で生きていたのですよ」
声1「大きな世界に出てみたいとは思わないのですか」
声2「大きな世界に出て、何になるというのです。我々はどのみち、暗闇にかえるというのに」

 明転。
 舞台は明治時代、山陰地方のとある街。
 男がいる。東京から来た紳士。両手に荷物を持っている。
 男は、地元の住人と話をしている。

男「フナ、ですか」
住人「そうじゃ。数匹、幼魚のころから、井戸に放しとる」
男「なぜ」
住人「フナはな、水の中の汚れやゴミを食ってくれんだ。フナがおる井戸は、きれいな水が保たれる」
男「ほう」
住人「水は生活に必要なもんだけんの。わしらはフナに生かされとるわけじゃ」
男「となると、こちらの井戸にも」
住人「もちろんじゃ。耳を澄ませんさい。聞こえてくるじゃろ」

 男、井戸に耳を澄ませる。
 井戸の底から、水が跳ねる音が響く。

男「確かに、いますね」
住人「まあそういうことだけん、ここの水は好きに使ってごしない」
男「フナは、どんな気持ちなんでしょうね」
住人「……フナの、気持ち」
男「こんな真っ暗な世界に閉じ込められ、どこに向かうこともできず、人間たちを恨んだりしていませんでしょうか」
住人「(笑う)フナの気持ちか。おもしろいことを言いなさる。東京育ちは違うのう」
男「そんなに面白かったですか」
住人「そげなこと、わしらは考えもせんかったけんの。そうじゃな、わしはイヤじゃな、そんな生き方。新しい女子にも出会えんからな。まあ、フナが不満を漏らすようなら、考えてやるわい」

 住人、笑う。

住人「さて、この家についてなんだが」
男「大家はおばあさんだと伺っております」
住人「うちのババアじゃ。だが長生きが過ぎていろいろと呆けとる。家の管理やらなんやらは全部わしが代わりにやっとる」
男「そうでしたか」
住人「この家は、ババアの親父が昔住んどった家でな。一昔前までは人に貸しとったんだが、ここ最近はめっきり借りる人もおらんようになった。じゃけん中はオンボロじゃ。あちこちガタがきとるけん、中に入るときはよう注意なさい」
男「構いません」
住人「家賃もえらい額を前払いしてくれたわけだけん、本当ならわしらが掃除してやった方がええとも思ったんだがな、こっちも本業が忙しいだけん」
男「家賃が足りなくなった際は、どちらに支払えばよろしいでしょうか」
住人「(笑う)そげなことは考えんでええ。いただいた分で数年はいてくれて構わんけん。もしも足りなくなったらわしの方で取り立てに向かわせてもらうがな」
男「よかった。是非そうしていただきたい」
住人「しかしあんた、えらい奇特な金持ちなんじゃな。東京からわざわざこんな山陰の山奥に来て、ボロの家を借りたいなんて言い出して」
男「金持ちではありません。ただ、趣味がなくて、使わぬ金が無為に溜まってしまいました」
住人「いやいや、こりゃあ十分おかしな趣味じゃ。(ズボンのポケットをまさぐり、鍵を取り出す)これが家の鍵」
男「ありがとうございます」
住人「こげなもんなくても、泥棒には簡単に入られるような部屋じゃがな」
男「ここに入る泥棒もそうはいませんでしょう」
住人「(笑う)言いなさるの。もっともじゃ」
男「思ったことは素直に言う性分でして」
住人「そりゃ助かるの。その調子で、何か不都合があったら教えてごしない。わしの住所は教えておくけん。(メモを渡す)まあ実際は、我慢してもらうことだらけじゃろうが」
男「助かります。そういたします」
住人「じゃ、ゆっくりしてごしない」

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