星の溟 月の河(完全版)
〜響きあう物語〜
『星の溟(うみ) 月の河』


   プロローグ

 音の無い、静かな世界。
 それが、僕の持つ最初の記憶だ。
 兄弟たちは、黙って柔らかな殻の中に眠っている。
 卵、同じ顔をした、たくさんのDNAのクローンたち。
 この世に生み出されたことに、何の疑問も感じない小さな命。

 僕は、僕だけが違っていた。
 柔らかな殻から水中に解き放たれた瞬間、いやそれよりも前に瞳を持ったその時から、僕は空の方ばかり見ていた。
 果てしなく広がる灰色の、これは一体なんだろう?
 そして、夜になれば、次第に色を変え、一面の群青には無数の小さな煌めきが現れる。

 僕たちが生まれたのは冬の初め。最後の集団だった。めいめいが食料の入った小さなリュックサックを持って、兄弟たちと共に水の中にそろそろと泳ぎだす。
 母なる川の中で。
 両親の顔は知らない。だから、この生まれた河が僕らの故郷であり、親のようなものだ。


第一部 翼を求めて

   1

 水面近くまで浮上するのに、一ヶ月ほどかかった。その頃、誰が一番早く泳げるかということに兄弟たちは夢中だった。
 冷たい水の中で、それでも意味なくはしゃぐ兄弟たちを、僕はいつも斜(はす)に見ていた。別に、羨んでいたわけではない。
  僕たちの一生は、生まれた時の体の大きさで決まってしまう。生まれた川で暮らせるのは、すでに今幅を利かせている年長組だ。いずれ僕たちは年長組に追われるように生まれたところを離れなければいけない。
 秋生まれの集団に比べても体の小さい兄弟の中で、僕は殊に体が小さかった。もちろん、泳ぐのだっていつもビリだ。
 同じ世代でも、いつかは縄張り争いが始まるだろう。今は無邪気な兄弟たちも、歯を剥き出して僕にぶつかってくる。そう思うと、馴れ合いのような仲良しごっこが僕にはたまらなく疎ましかったのだ。

   2

 やがて、周りの温度が上がり、空も淡く水の色を映すようになった頃、川の天井をひらひらと彷徨っている影を僕は見つけた。花びらのように見えるが、そうではなかった。
 僕は水面に顔を出して、河原の小石に休んでいるそいつに声をかけた。
「こんにちは、あなたは誰?」
「びっくりした。あんた…魚の子じゃないか。私は蝶ってもんだよ」
「すごく綺麗だね、あなたのその…」
「これかい? 羽のことかい」
「うん。いいな、それってすごく自由に見えるよ」
「そりゃ、飛ぶには必要だからね」
「飛ぶ?」
「こうやって、羽を動かして…」
 蝶は止まっていた石から、ふわふわと浮かんで見せてくれる。
「僕も、飛んでみたい」
「あんたたち魚だって、たまに飛んでるじゃないか」
「あれは跳ねてるだけだ、飛んでるんじゃないよ」
「ふうん…。あんた、面白い子だねえ」
 蝶は空中に浮かんだまま、僕を見下ろしてクスクス笑った。
「魚のくせに変だって言うんだろ」
「いや…もしかしたら、魚だって、飛べるようになるかもしれないよ」
「どういうこと?」
「風の噂で聞いたんだけど、『虹の鱗』のある魚は飛べるんだって」
「『虹の鱗』…」
 その言葉を聞いて、僕の全身に震えが走っていく。
「その魚はどこにいるの?」
「さあ…そこまでは知らないね」
 その時、暖かい風がさあっと吹いて、蝶は高く舞い上がった。
「魚が飛べるわけないじゃないか。単なる噂だよ」
 そんな言葉を残して。
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